2007年 09月 04日
青山真治『サッド・ヴァケイション』 |
『Helpless』、『ユリイカ』に続く北九州三部作の最終章。まず驚いたのは、私自身が20年近くを過ごし、もはや知らない場所はないとすら思っていた北九州が、実は映画的に豊かな場所であったということだ。タイトルバックのシーンはおそらく門司だと思われるが、この工場の鉄塔群など、小津やアンゲロプロスが好んで撮りそうな佇まいであり、どこか誇らしささえ感じる。そして映画序盤で、おそらく禊を行うために、健次(浅野)が入水する池。その悠然とした存在を前にしては、長回し以外の撮影方法は野暮というものだろう。小説家青山真治の短編『遊水地の眺め』もここを基に書かれたのだろうか。
『Helpless』で擬似兄弟、『ユリイカ』で擬似家族を描いた青山監督は『サッド・ヴァケイション』で擬似大家族を描く。母親(あるいは母親役)不在の『ユリイカ』での家族は砂上の楼閣であった。微妙なバランスで成り立っていたように見えたそれは、果たしてその形を保つことはできなかった。海をラストに終わった『ユリイカ』、そして海から始まる『サッド・ヴァケイション』。海は母親の表象である。『ユリイカ』のラストの海は、非在の母親を求めた末の到着点であった。対して、『サッド・ヴァケイション』のメイン舞台である間宮運送は海に臨む場所にある。事務所であり、寮であり、家であるこの場所は大きな子宮である。息子である健次(浅野)がその中でいくら暴れようとも、あくまでそれは母親の子宮を蹴る胎児以上の衝撃はない。この作品で終始描かれるのは、女性(母性)の強さ、男性の弱さである。健次がいくら良き母親を演じても(ひょんなことから面倒をみることになった、中国人の孤児アチュンに食事を作ったり、言葉を教えたりする健次の姿!)、アチュンを中国人密入国グループの手から守ることは出来ない。比して、健次の母親(石田)は、一度は母親としての役割を放棄しながらも、息子を帰還させることが出来るのである。たとえそれが復讐という動機付けであったとしても。
すべてを許し、受入れる生。これが、「愛」とも言い換え可能な女性の強さであり、それはある意味で神の行為と合致するだろう。終盤、石田と浅野が刑務所で面会するシーンで、石田を正面から捉えたバストショットの後光の射し方は、まさに神のそれである。この作品での女性の描写は、黒沢清監督の『アカルイミライ』の中で藤竜也が言った「私は君たち全部を許す」という言葉に対しての青山監督なりの返答だったのではないだろうか。
『Helpless』で擬似兄弟、『ユリイカ』で擬似家族を描いた青山監督は『サッド・ヴァケイション』で擬似大家族を描く。母親(あるいは母親役)不在の『ユリイカ』での家族は砂上の楼閣であった。微妙なバランスで成り立っていたように見えたそれは、果たしてその形を保つことはできなかった。海をラストに終わった『ユリイカ』、そして海から始まる『サッド・ヴァケイション』。海は母親の表象である。『ユリイカ』のラストの海は、非在の母親を求めた末の到着点であった。対して、『サッド・ヴァケイション』のメイン舞台である間宮運送は海に臨む場所にある。事務所であり、寮であり、家であるこの場所は大きな子宮である。息子である健次(浅野)がその中でいくら暴れようとも、あくまでそれは母親の子宮を蹴る胎児以上の衝撃はない。この作品で終始描かれるのは、女性(母性)の強さ、男性の弱さである。健次がいくら良き母親を演じても(ひょんなことから面倒をみることになった、中国人の孤児アチュンに食事を作ったり、言葉を教えたりする健次の姿!)、アチュンを中国人密入国グループの手から守ることは出来ない。比して、健次の母親(石田)は、一度は母親としての役割を放棄しながらも、息子を帰還させることが出来るのである。たとえそれが復讐という動機付けであったとしても。
すべてを許し、受入れる生。これが、「愛」とも言い換え可能な女性の強さであり、それはある意味で神の行為と合致するだろう。終盤、石田と浅野が刑務所で面会するシーンで、石田を正面から捉えたバストショットの後光の射し方は、まさに神のそれである。この作品での女性の描写は、黒沢清監督の『アカルイミライ』の中で藤竜也が言った「私は君たち全部を許す」という言葉に対しての青山監督なりの返答だったのではないだろうか。
by sound-and-vision
| 2007-09-04 22:11