2008年 01月 05日
五反田団 『新年工場見学会08』と地元のこと |
・五反田団の『新年工場見学会08』に行った。前回公演の『生きてるものはいないのか』が本当に傑作だったこともあってとても期待していたのだが、あまりの寒々しさにひどくがっかりしてしまった。演劇を真剣に見始めたのは半年くらい前からで、それ以前は全く興味がなかったか言えばそういうわけでもなかった。ただ、目の前にいるリアルな人間が演技していて、それを見ている私の視線を役者もまた見れるのだという生々しさ(映画であればこのような視線の交換は起きない)と、そのように役者と観客の距離が近いことから生じる共犯関係に抵抗感があった。しかし、ミクニヤナイハラプロジェクトの『青ノ鳥』や先述の『生きてるものはいないのか』を観ることで、自分が抱いていた演劇に対する先入観の偏りに気付かされたり、その抵抗感ををいったん括弧に入れてでも観る価値があると思えるようになった。だが、昨日の『新年工場見学会08』はまさに観客との共犯関係の上に成り立つ作品で、何かの間違いで「エンタの神様」の観客席に座らされているような錯覚さえ覚えかねないものだった。周りの観客はゲラゲラ笑っているのだが、私には笑いのコードが全く理解できなかった。五反田団のHPをよく見ると「悪ふざけ的な要素の強い公演となっております。正月が暇でしょうがない人向きです。」とは書いているが、そんな一言二言でエクスキューズされては困る。これからも五反田団の公演は行くつもりだが、底が知れる瞬間を見てしまったようで残念に思った。
・年末年始は割りと長く地元の北九州に帰省した。そこでなぜか「地元を捨てたヤツ」としてキャラ設定されている感があり、地元について少し考えた。実際のところ、街としての北九州にはまったく魅力を感じていない。帰省の動機付けのほぼ100%は家族と友人達の存在である。その友人達さえいれば、北九州でなく、札幌であろうと沖縄であろうと、超マイナーな町であろうと楽しい学生生活を送れたはずだという確信にも似た自信がある。そこが北九州でなければならなかった理由は見当たらない。私にとっては、町はそのようにどこまでも相対化しうるものなのだ。だがしかし、どれだけ相対化を試みたところで、実際に北九州で育ってしまったという事実だけは相対化しようがないし、ノスタルジーの対象は北九州に設定されてしまっていて、小さな愛郷心は当然存在している。けれどもやっぱりそれは心の中にしまっておくべきことで、口に出すことではないような気がする。
・年末年始は割りと長く地元の北九州に帰省した。そこでなぜか「地元を捨てたヤツ」としてキャラ設定されている感があり、地元について少し考えた。実際のところ、街としての北九州にはまったく魅力を感じていない。帰省の動機付けのほぼ100%は家族と友人達の存在である。その友人達さえいれば、北九州でなく、札幌であろうと沖縄であろうと、超マイナーな町であろうと楽しい学生生活を送れたはずだという確信にも似た自信がある。そこが北九州でなければならなかった理由は見当たらない。私にとっては、町はそのようにどこまでも相対化しうるものなのだ。だがしかし、どれだけ相対化を試みたところで、実際に北九州で育ってしまったという事実だけは相対化しようがないし、ノスタルジーの対象は北九州に設定されてしまっていて、小さな愛郷心は当然存在している。けれどもやっぱりそれは心の中にしまっておくべきことで、口に出すことではないような気がする。
by sound-and-vision
| 2008-01-05 21:07