2008年 01月 13日
「シンセミア」などなど |
阿部和重の「シンセミア」を久々に読み返してみて、「シンセミア」が町田康の「告白」と同床異夢な構造であって、同じような状況下においてまったく別の解決方法を辿っていることに気付き快哉を叫んだ。以前に「シンセミア」を読んだときは、パン屋の息子「田宮博徳」、警察官「中山正」をメイン主人公として、場面場面で彼らに感情移入しつつ読み進んでいたのだけれど、今回はサーガであることを意識し、登場人物の誰からも距離をとり、要するに物語の舞台である「神町」を主人公として読んだ。今になって思えば、作品のテーマ的にはそのように読むのが正しい読み方(=作者が意図した読まれ方)であったような気がする。で、そのように読んだときに「告白」と「シンセミア」の相通じる状況とは、「歴史が何度でも再帰的に繰り返して現実を構成する」ということだ。「告白」も「シンセミア」も一見したところ、過去に犯した同じような失敗(「呪い」と言い換えてもいい)を何度も繰り返す。この状況を打開する方法論が二作でまったく異なるのはおもしろい。「シンセミア」は最終的に、神町に存在する呪いの分子をきれいに葬り去ることによって、呪いが繰り返す可能性をなくした。つまりこれは自分の周りの環境的なところに手を入れたということだ。一方で「告白」はどうかと言うと、主人公熊太郎は一見同じことを繰り返しているように見えながら、実はほんの僅かながらでも成長しているのである。成長することによって、再帰する歴史に抗おうとする熊太郎の姿は本当に健気であり、「告白」は成長速度の最も遅いビルドゥングスロマンだと思う。そういう意味で、個人的には「シンセミア」よりも「告白」の方に強く惹かれてしまう。この閉塞した時代にシンセミア的でない方法で一縷の希望を提示した町田康は、ある種、楽観的の一言で切捨てられかねないほどのポジティブさではあるが、その功績はとても大きいと感じている。
ちなみに古語辞典によると「呪い」とは以下のような説明だった。
「恨みのある人などに悪いことがおこるようにと 神仏に祈ること。
《のる(告る)》に反復・継続の接尾語《ふ》のついたかたち。」
「告白」とは呪いを白く(つまり無に)するという解釈を、無謀とわかりながらもせずにはいられない。
「シンセミア」を読んで浅野いにおの「虹ヶ原ホログラフ」も同時に思い出した。去年たまたま古書店で安く売られていたので購入したのだが、いい作品なので何度も読み返している。基本的にほとんどマンガを読まないので、いままでの作品と比べてどうだとか、ここが新しいとかは言えないのだけれど、たった一冊のマンガであるにもかかわらず、これほど重層的(複層的?)な物語を描いていることに驚いた。「シンセミア」や中上健次の紀州サーガ、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」に勝るとは到底言えないが、これらの作品がサーガを物語るのに800ページくらいを要していることを考えると、たった300ページのマンガで勝負している浅野いにおは内容密度的には負けてないんじゃないのと思えてしまう。
by sound-and-vision
| 2008-01-13 16:03