2008年 01月 20日
村上春樹から考える |
かなり長い間、私は村上春樹という作家の熱心な読者ではなかった。もちろん、十代のころに「ノルウェイの森」くらいは読んだことはあったが、その当時は、自分との接点を全く見つけられず特に重要な作家とは位置付けなかった。この半年ほど、某私塾で現代小説を考えるにあたって村上春樹の作品を多く読むうちに、彼について思うことがいくつか浮かび上がってきたので、少し書いておきたい。
村上春樹の作品のいくつかを読めば、彼が昔から同じような問題意識を持っていて、それを物語に落とし込んでいるのがわかる。だから、同じような話が多い。村上春樹が問題にするのは「路上と森」であったり「生と死の関係性」などであるが、私が最も興味を覚えるのは「想像することの責任」というものだ。「ノルウェイの森」の中でも、僕と緑が食事に行く場面でやや冗談めいた軽いニュアンスで書かれている。緑が、自らの想像の中で僕のペニスを入れさせてあげなかったからという理由で今日の食事代を払う、というくだりがそうだ。この問題を一つの作品レベルに書き上げたのが「海辺のカフカ」だと思う。「想像することの責任」は「倫理」と言い換えられると感じていて、それは一般的な法律とはあまり関係のないもので、むしろ自分の中の法律であるところの「正義」の問題なのだと思う。(与党が提唱する「共謀罪」というものに賛成できないのは、その法案に付随する国家の思惑が透けて見えるからだけではなく、「想像することの責任」を一般的な法律で問うことが不粋に思えるからでもある。)
「想像することの責任」をもう少し深く考えると、それが「本を読む」という行為がどういうことなのかを問うものであることに気付く。つまり、「感情移入することの責任」だ。「感情移入することの責任」と「想像することの責任」は本質的にはそれほど大差はない。例えば、主人公と自分を重ね合わせて読んでいたとする。その主人公がやむなく人を殺めてしまったとして、その罪を主人公は自らの命を以って償ったとき、主人公は死んでしまっているが、読み手の自分は生きている。これをどう考えるかということだ。それは物語の中の話であって、現実とは別だ・・・という反論をするのであれば、その人にとって「本を読む」ことは意味がないと宣言するようなものだろう。前のエントリでも書いたように、その体験が自分の「歴史」として刻まれる可能性があるという自覚を持てと村上春樹は言うのである。「本を読む」ことはそれほど恐い行為であると。
村上春樹以降、全く本を読まなくなったという人が40代くらいの人に多いという話を耳にしたことがあるが、もしかしたらそのようなことを考えていたのかもしれない。そういう人たちがいるのはしょうがないと思う。この人たちは、「本を読む」ことに無自覚なまま無意味な読書を続ける人よりは、自分の中の正義に忠実であるように私には思える。
村上春樹の作品のいくつかを読めば、彼が昔から同じような問題意識を持っていて、それを物語に落とし込んでいるのがわかる。だから、同じような話が多い。村上春樹が問題にするのは「路上と森」であったり「生と死の関係性」などであるが、私が最も興味を覚えるのは「想像することの責任」というものだ。「ノルウェイの森」の中でも、僕と緑が食事に行く場面でやや冗談めいた軽いニュアンスで書かれている。緑が、自らの想像の中で僕のペニスを入れさせてあげなかったからという理由で今日の食事代を払う、というくだりがそうだ。この問題を一つの作品レベルに書き上げたのが「海辺のカフカ」だと思う。「想像することの責任」は「倫理」と言い換えられると感じていて、それは一般的な法律とはあまり関係のないもので、むしろ自分の中の法律であるところの「正義」の問題なのだと思う。(与党が提唱する「共謀罪」というものに賛成できないのは、その法案に付随する国家の思惑が透けて見えるからだけではなく、「想像することの責任」を一般的な法律で問うことが不粋に思えるからでもある。)
「想像することの責任」をもう少し深く考えると、それが「本を読む」という行為がどういうことなのかを問うものであることに気付く。つまり、「感情移入することの責任」だ。「感情移入することの責任」と「想像することの責任」は本質的にはそれほど大差はない。例えば、主人公と自分を重ね合わせて読んでいたとする。その主人公がやむなく人を殺めてしまったとして、その罪を主人公は自らの命を以って償ったとき、主人公は死んでしまっているが、読み手の自分は生きている。これをどう考えるかということだ。それは物語の中の話であって、現実とは別だ・・・という反論をするのであれば、その人にとって「本を読む」ことは意味がないと宣言するようなものだろう。前のエントリでも書いたように、その体験が自分の「歴史」として刻まれる可能性があるという自覚を持てと村上春樹は言うのである。「本を読む」ことはそれほど恐い行為であると。
村上春樹以降、全く本を読まなくなったという人が40代くらいの人に多いという話を耳にしたことがあるが、もしかしたらそのようなことを考えていたのかもしれない。そういう人たちがいるのはしょうがないと思う。この人たちは、「本を読む」ことに無自覚なまま無意味な読書を続ける人よりは、自分の中の正義に忠実であるように私には思える。
by sound-and-vision
| 2008-01-20 13:22