2008年 01月 26日
星野智幸から考える |
星野智幸の新作「無間道」を読んだ。星野の作風は大雑把に分けて二種類あって、片方は「最後の吐息」に代表されるガルシア・マルケス風のマジックリアリズム文学と呼ばれるもので、もう片方は「ファンタジスタ」に代表されるSF的な手法を用いものだ。どちらもそのジャンルの王道を行くものではないが、亜種として捉えることはできるだろう。「無間道」は後者の作風で、社会に対する疑念、その中での生き方という問題を「ファンタジスタ」以上の緻密さで描く。狂った社会を丁寧に描けば描くほどSFとしての強度は増していくのだが、それが現実との乖離を推し進めるのではなく、むしろ逆に現実の鏡像としての強度も増している。
「生きること」と「死ぬこと」についてどのように考えているだろうか。多くの場合、それは別の存在として認識しているのではないか。例えば、常に死を意識して自省する態度を説く「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉があるが、これを意訳すれば「生きると云うことは死ぬ事と見つけたり」ということになるだろう。だが、これも「生きること」=「「死ぬこと」のように等号で結んでみたところで、逆説的に「生きること」と「死ぬこと」が本質的には別物であることを示してしまう。本質的に同じものであれば等号で結ぶ必要すらないはずだ。そもそも、武士道において「生」の参照点としての「死」は別物である必要がある。それを等号で結ぼうとする姿勢が武士道と呼ばれるのだから。
星野の死生観は「生きなければ死ねない」というものである。補足するなら「(主体的に)生きなければ死ねない」ということだ。「生」の中に「死」が内包されるという考え方で、これは「ノルウェイの森」の第二章の最後の箇所と対応していると思う。武士道が「生」のために「死」を意識するのに対し、星野は「生」のために「生」を意識する。星野にとっては、「生」と「死」を意識的に「=」で結ばなくとも、それらは本質的に同じものだ。
「生と死」の問題といえば、昨年彗星のごとく論座に登場し、「希望は、戦争」というセンセーショナルな表明をして一躍時の人となった赤木智弘を思い出す。これに対して、いわゆる左翼系の人たちが応答文を寄せているが、本当に的外れとしか言いようがない。小熊英二でさえ、トークラジオで赤木問題に素っ頓狂な回答をしていて非常にがっかりした。やはり戦争について真剣に考えてきた人たちで(それはそれで大きく評価するけれども)、赤木氏がイメージで戦争を語ることに過剰に反応してしまっている(赤木氏がイメージでしか戦争を語らないのは戦略上当然だ。「希望は戦争」ではなく「希望は、戦争」なのは恐らくそういう意味だと思う)。問題はそこにあるのではない。問題は、最終的に自らの「生」をプラスに総括するために「死」を持ち出さざるを得ない状況だ。この点は萱野稔人氏の見解と概ね合致する。「死」によってしか意味付けられない「生」とはなんと空虚な「生」だろうか。赤木氏は「死にたい」と言っているのではなく「生きたい」と言っているのだ。星野の、「生きることでしか死ねない」というメッセージはどこまでもポジティブであり、赤木氏に応答文を寄せた誰よりも価値のあることを言っているように思える。
by sound-and-vision
| 2008-01-26 08:39