2008年 02月 23日
古川日出男 「ゴッドスター」 |
古川日出男の「ゴッドスター」を読んだ。身重の姉が交通事故で亡くなってしまい、「おばさん」になれなくなった「あたし」は、ある日、記憶喪失(?)の男の子カリヲと出会い一緒に暮らし始めるというストーリー。その生活を通して、「あたし」は普段の世界の別の側面を見る。少し前に読んだ米澤穂信の「さよなら妖精」と近い印象があった。つまり、批評の物語化。
「ゴッドスター」がすごいのは、それが物語にとどまらないところで、文体もまた批評的なそれだ。古川日出男は過去の作品においても「人称」については意識的だったし、「見る/見られる」、「語る/語られる」ということにもこだわりを持っているように思う。「ゴッドスター」の文体は、日本語で普通に書かれた文章を一度英訳(別に英語でなくてもいいのだけれど)して、それを直訳気味に和訳し直したような印象を受ける。直訳気味であってもそれは日本語だから、読めることは読める。直訳だから、例えば、省略されない「I」=「あたし」が異常なほど頻出する。知らず知らずのうちに日本語をコード化してきたことが指摘される。「Lost in Translation」ではなくて「Found in Translation」。
「ゴッドスター」を読みながら、ロラン・バルトの「表徴の帝国」の中に収められている「見知らぬ言葉」という章が思い浮かんだ。一部引用。
シヌーク、ノートカ、ホピ・インディアンなどの言語についてのサピアやウォーフの文章、中国語についてのグラネの文章、一人の友人の日本語についての言葉、これらのものは、わたしたちの言語(わたしたちが持ち合わせている母国語)がどんな代償をはらったにしたところで、憶測も発見もできないような風景を見せてくれ、全的な物語世界(ロマネスク)を押し開いてくれる。
ロラン・バルトは「母国語」では見えない世界が「異国語」によって見えるというニュアンスのことを言っている(たぶん)。
古川日出男はその一歩先のことをやっていて、「母国語」を「異国語」に変換して、それをさらに「母国語」にフィードバックすることで、「母国語」を新しいものに創りかえている。
「スター」は「星」で、よく見れば「星」は「日」と「生」で、でもってその前が「ゴッド」なんだから、「ゴッド」が「日」本語を「生」んだ。って誤訳は全然アリでしょう。古川日出男風に言えばこんな感じ。
―「ゴッドスター」は「神による日本語創世記だ」ってあたしは断言する。―
by sound-and-vision
| 2008-02-23 08:08