2008年 06月 04日
世界は「 」でできている |
ガス・ヴァン・サントが『エレファント』で描いたのは「世界の認識」だと一先ず言い切ってしまおう。
「世界」とは個々人の主観である「せかい」を重ね合わせることでできている、と仮定したとき、『エレファント』の独特な撮影方法はつまりそれを技術的に表象したものだと言えるだろう。
誰かにとっての「せかい」においては、自分自身も「世界」を構成する要素であるということ。
二人組の少年はこの「世界」の捉え方を完全に誤っていて、自らの主観であるところの「せかい」を寸分違わず「世界」と直結してしまった。「せかい=世界」=セカイ。
しかも、その「せかい=世界」=セカイとはこの場合「学校」とほぼ同義であるのだが、至って単純な事実として、そもそも「学校」自体が「世界」を構成する一要素にすぎない。
二人組が「世界」に戦いを挑んだところで、はじめから結末ありきのその挑戦は、勝ちの基準も欠けていれば、負けの基準も欠けている。
勝ちもなければ負けもない勝負など、勝負という前提からして間違っている。勝者不在のその戦いは、ただ単純に「最悪の惨劇」にしかならない。誰にとっても無意味。
銃乱射の後、校内で出会った2人の会話。
「どうだった?」
「まあまあだ」
「まあまあ」という返事は当然すぎるほど当然だ。この場面で「まあまあ」以外の回答などあるはずがない。
では、あと何人殺せば「まあまあ」ではなくのるのか?10人?20人?
何人殺しても同じに決まっている。彼らがそれをゲームの延長として捉えている限りにおいて。テレビゲームでいくら人を殺しても、それがテレビゲームである限りいつかは電源を切らなければならない。切ってしまえば何も残らない。そこでは死んでいた誰かは、ここでは死んでいない。
現実世界で彼らが撃った銃弾は確かに当たった。頭に、胸に、腹に。たくさんの人が死んだ。しかしそれでもなお、彼らの世界認識のモードが「セカイ」である限りにおいて、彼らにとって人を殺すことがゲーム以上の意味を持つことはないことは言うまでもない。
「誰かにとっての「せかい」においては、自分自身も世界を構成する要素であるということ」が判らなければ、人の死に意味を見出すことなどできない。
「誰かにとっての「せかい」においては、自分自身も世界を構成する要素であるということ」が判っているならば、人の死に意味を求めるような事態にまではまずならない。
ところで、『エレファント』の舞台である「学校」の描き方、つまり、現実に存在する世界の構成要素の一つでありながら、あたかもそれ自体で独立しているような描き方は、私たちがよく知っている何かによく似てはいないだろうか。その「何か」とはすなわち「映画」のことなのだが。
『エレファント』は「映画」である。「映画は映画である」だなんて、そんな宣言はゴダール気取りの悪い冗談にしか思えない。
しかしながら、いつからか映画が「世界」であることを自任するシステムが出来上がってしまった現在、『エレファント』のように「映画」である映画は、そのこと自体が映画についての批評たりえてしまう。
もうひとつ言えば、二人組のようにその閉じた世界を「世界」と捉えてしまうこともまた何かに似ている。シネフィルやディレッタントに限らずとも、ある作品について、現実からの距離の云々(「リアル」とかそうじゃないとか)を超えたところで心を捉えられた経験がある者であれば、二人組の行為自体の是非は措いておくとしても、心性についてはどこか通ずるものが確かにあるのではないか。
ヴィム・ヴェンダースが『パリ・テキサス』の中で、マジックミラーを用いることで「見る/見られる」という関係における「映画」を内包してしまったように、ガス・ヴァン・サントの『エレファント』も「世界の認識」という点における「映画」をその裡に秘めている。
by sound-and-vision
| 2008-06-04 23:42