2008年 06月 11日
舞城王太郎『イキルキス』 |
たとえば「林檎」という言葉は本物の林檎ではないし、「青い」という言葉は青くない。言葉は絶対にそのもの自体とイコールな関係になることはできなくて、そのもの自体を指し示す記号以上のものではない。
私たちは、全体としての世界(というこの「世界」という言葉自体がそのものを指していないのは措いておいて)に言葉を与えることで世界を認識する。
ここで重要なのは、私たちが持っている言葉の全てを足したものが「世界そのもの」より大きなものにならないのは当然として、それと全くイコールになることもまたないということだ。
仮に偶然にも、言葉全体が「世界そのもの」と一致していたとしても、やはりロジカルな思考の内の感覚的な部分(矛盾していそうな表現だけども)では一致しているとは思えないだろう。
この「言葉」はおそらく「科学」とも置き換え可能で、科学的に正しいことだけで世界は成り立っているわけではないし、百年後の科学は今よりも確実に多くのことを解明しているはずだが、科学によって世界そのものが解明されることはおそらくない。仮に全てが解明されていたとしても、感覚的にはやはりそれは「全て」ではないのだろうという思いはしつこく残る。
群像7月号に掲載の舞城王太郎の『イキルキス』を読んだ。
さっきの「世界そのもの」と、ここでの「セックス」はたぶん同じことなのだと思うのだ。列挙できるような具体的な行為や感情だけで「セックス」は成り立っているわけではなくて、そこには言葉にできない何かがある。
科学では説明できないことは科学で説明できないということであって、科学的に間違っていることが他の何か的には正しいことは十分あり得る。科学的に解明できない事態を解決する方法が、科学的に見れば明らかに無根拠で馬鹿げた方法であることもあるし、感覚的にビビっときたということが、あらゆる科学的な何ものよりも、ビビっときたというただそのことだけで根拠たりうるということだってあるだろう。そしてさらに、それが奇跡的に正解であることも無いとは言えないのだ。「科学=言葉の全体」と「世界そのもの」のあわいには「可能性」としか呼びようのないものがある。
主人公福島学が知っているのはシニフィアン(言葉)としての「セックス」であって、シニフィエ(実際の行為)としての「セックス」ではない。にも関わらず(あるいは、だからこそ)、彼は「セックス」が唯一の救済であることを確信する。八木智佳子との会話、p84の「ホントや。死なんといてほしい」からp86の「セックスせん?」までの間に彼は「セックス」をシニフィアンではなくシニフィエとして捉え直したのだと思うのだ。さらに言えば、その過程のなかでシニフィエをも超えて「可能性」というものまで含んだ形で捉え直している。
言葉は表象でしかなく、決してそのものではない不完全なものであることを知りつつ、舞城は言葉を選びとり、小説を書く。言葉の不完全を伝えるために言葉を用いる。それはもう倒錯している。
小説家である舞城王太郎の言葉(シニフィアン)もまたシニフィエを超えた「可能性」を含んでいていて、私が舞城の言葉に強く魅かれるのはつまりそういうことだと感じている。
私たちは、全体としての世界(というこの「世界」という言葉自体がそのものを指していないのは措いておいて)に言葉を与えることで世界を認識する。
ここで重要なのは、私たちが持っている言葉の全てを足したものが「世界そのもの」より大きなものにならないのは当然として、それと全くイコールになることもまたないということだ。
仮に偶然にも、言葉全体が「世界そのもの」と一致していたとしても、やはりロジカルな思考の内の感覚的な部分(矛盾していそうな表現だけども)では一致しているとは思えないだろう。
この「言葉」はおそらく「科学」とも置き換え可能で、科学的に正しいことだけで世界は成り立っているわけではないし、百年後の科学は今よりも確実に多くのことを解明しているはずだが、科学によって世界そのものが解明されることはおそらくない。仮に全てが解明されていたとしても、感覚的にはやはりそれは「全て」ではないのだろうという思いはしつこく残る。
群像7月号に掲載の舞城王太郎の『イキルキス』を読んだ。
いつも友達とかとはやりたい、ちんちん舐めてもらいたい、ちゃんぺ舐めたいなどと表現していることをセックスと言ってみると、なんだか僕がやりたいこととは全く別物のような気がした。
実際にやること以外に、やってるときの気持ちとか、やる手順とか、やる理由とか目的とか、そういういろんなことがセットになってセックスという言葉に封じ込められていて、一つの、身近にはあるもののやはり格式のある、何かの儀式みたいに思えた。
さっきの「世界そのもの」と、ここでの「セックス」はたぶん同じことなのだと思うのだ。列挙できるような具体的な行為や感情だけで「セックス」は成り立っているわけではなくて、そこには言葉にできない何かがある。
科学では説明できないことは科学で説明できないということであって、科学的に間違っていることが他の何か的には正しいことは十分あり得る。科学的に解明できない事態を解決する方法が、科学的に見れば明らかに無根拠で馬鹿げた方法であることもあるし、感覚的にビビっときたということが、あらゆる科学的な何ものよりも、ビビっときたというただそのことだけで根拠たりうるということだってあるだろう。そしてさらに、それが奇跡的に正解であることも無いとは言えないのだ。「科学=言葉の全体」と「世界そのもの」のあわいには「可能性」としか呼びようのないものがある。
主人公福島学が知っているのはシニフィアン(言葉)としての「セックス」であって、シニフィエ(実際の行為)としての「セックス」ではない。にも関わらず(あるいは、だからこそ)、彼は「セックス」が唯一の救済であることを確信する。八木智佳子との会話、p84の「ホントや。死なんといてほしい」からp86の「セックスせん?」までの間に彼は「セックス」をシニフィアンではなくシニフィエとして捉え直したのだと思うのだ。さらに言えば、その過程のなかでシニフィエをも超えて「可能性」というものまで含んだ形で捉え直している。
言葉は表象でしかなく、決してそのものではない不完全なものであることを知りつつ、舞城は言葉を選びとり、小説を書く。言葉の不完全を伝えるために言葉を用いる。それはもう倒錯している。
小説家である舞城王太郎の言葉(シニフィアン)もまたシニフィエを超えた「可能性」を含んでいていて、私が舞城の言葉に強く魅かれるのはつまりそういうことだと感じている。
by sound-and-vision
| 2008-06-11 22:18