2008年 07月 05日
ショートメッセージ試論 ーポストみつをとしてのー |
UCC主催の「第9回コーヒーストーリー大賞」で佳作に入賞しました。
先月の頭に「最終選考まで残っている」と連絡があって、正直なところ、最優秀賞も獲れるんじゃないかという自信もなくはなかっただけに、この結果は少し残念であり、ふつふつとした憤りも同時に覚えるわけです。賞金20万円手に入れ損ねたというのが一番の要因であるのは間違いないとしても、ショートメッセージに対する美学(の不在?)についてもちょっと物申したいと感じている自分を発見したのは、これは新鮮な驚きでした。ショートメッセージなんか応募作の一作しか書いたことがないにもかかわらず、なぜかショートメッセンジャーとしての矜持が生まれていることからすると、あの一作は無意識的にもコストのかかった一作だったのかもしれません。選考された側が選考した側をあれこれ言うのははしたないことなのかもしれませんが、それによって自分のショートメッセージ観があぶり出されるのであれば、それはいま必要なことであり、有効なことだと取り合えず思い込んでみます。
応募のきっかけは、以前のエントリで書いたスズキロクさんの短歌に影響されたからで、その短歌の魅力と強さを裏打ちする「音韻」(シニフィアン)と「意味」(シニフィエ)の関係性に興味を抱いたからでした。ある長さを持った文章(ex小説、エッセイ、取説・・・)と、五七五の形式の俳句や五七五七七の形式の短歌では、意味の到達の回路が大きく違う。小説などのある長さを持った文章が「音韻」を「意味」に変換しながら読まれることを前提としているのに対して、俳句や短歌や歌謡曲の歌詞などのリズムを伴う文章は必ずしも意味に変換しながら読まれることを前提としていない。もちろん、俳句や短歌を意味に変換しながら読む読み方を否定するのではありません。ある長さを持った文章の読みとの決定的な違いであり、リズムを伴うショートメッセージの最も大きな魅力はその音韻性にあって、意味に変換することなく持ち歩けるということだと思います。そうして、意味化される以前の状態で体内にストックされたリズムを伴うショートメッセージは、現実の何か事柄や出来事が契機となって再帰的に立ち上がってくるわけです。その瞬間に「音韻」は極めてアクチュアルに意味化されるのだと思います。そんなわけで、「音韻性が伴っていないショートメッセージ」など、あんが入っていないあんぱんと同様に、一種の語彙矛盾ですらあると思うのです。
今回の「第9回コーヒーストーリー大賞」入賞作を全て読んでみましたが、最優秀賞や優秀賞も含めて、音韻性に意識的な作品が非常に少ない。やはり、意味的なところからすると最優秀賞は僕の作品よりも深さがあるのかもしれない。ただ、声に出して読んだときのすわりの悪さはどうしても看過することができない。形だけはショートメッセージでありながら、内実はエッセイをやっているのです。そこにはショートメッセージであることの断念を欠いている。
選評がないので詳しい授賞理由がわかりませんが、「ショートメッセージでエッセイをやったことが斬新」ということなのかもしれません。僕のショートメッセージ観が全てだとも思わないし、絶対的に正しいと言うつもりもない。確固たる価値基準の下に選考がされたのであればそれはそれでいいわけです。ただ今回はどうも選考委員のショートメッセージ観が見えない。そこにはショートメッセージの美学が存在しているようには見えない。そこに僕は強い怒りを覚えるのです。
だって・・ショートメッセンジャーだもの。
もっと一緒にいたいから、ちょっと大きなカップを選ぶ
先月の頭に「最終選考まで残っている」と連絡があって、正直なところ、最優秀賞も獲れるんじゃないかという自信もなくはなかっただけに、この結果は少し残念であり、ふつふつとした憤りも同時に覚えるわけです。賞金20万円手に入れ損ねたというのが一番の要因であるのは間違いないとしても、ショートメッセージに対する美学(の不在?)についてもちょっと物申したいと感じている自分を発見したのは、これは新鮮な驚きでした。ショートメッセージなんか応募作の一作しか書いたことがないにもかかわらず、なぜかショートメッセンジャーとしての矜持が生まれていることからすると、あの一作は無意識的にもコストのかかった一作だったのかもしれません。選考された側が選考した側をあれこれ言うのははしたないことなのかもしれませんが、それによって自分のショートメッセージ観があぶり出されるのであれば、それはいま必要なことであり、有効なことだと取り合えず思い込んでみます。
応募のきっかけは、以前のエントリで書いたスズキロクさんの短歌に影響されたからで、その短歌の魅力と強さを裏打ちする「音韻」(シニフィアン)と「意味」(シニフィエ)の関係性に興味を抱いたからでした。ある長さを持った文章(ex小説、エッセイ、取説・・・)と、五七五の形式の俳句や五七五七七の形式の短歌では、意味の到達の回路が大きく違う。小説などのある長さを持った文章が「音韻」を「意味」に変換しながら読まれることを前提としているのに対して、俳句や短歌や歌謡曲の歌詞などのリズムを伴う文章は必ずしも意味に変換しながら読まれることを前提としていない。もちろん、俳句や短歌を意味に変換しながら読む読み方を否定するのではありません。ある長さを持った文章の読みとの決定的な違いであり、リズムを伴うショートメッセージの最も大きな魅力はその音韻性にあって、意味に変換することなく持ち歩けるということだと思います。そうして、意味化される以前の状態で体内にストックされたリズムを伴うショートメッセージは、現実の何か事柄や出来事が契機となって再帰的に立ち上がってくるわけです。その瞬間に「音韻」は極めてアクチュアルに意味化されるのだと思います。そんなわけで、「音韻性が伴っていないショートメッセージ」など、あんが入っていないあんぱんと同様に、一種の語彙矛盾ですらあると思うのです。
今回の「第9回コーヒーストーリー大賞」入賞作を全て読んでみましたが、最優秀賞や優秀賞も含めて、音韻性に意識的な作品が非常に少ない。やはり、意味的なところからすると最優秀賞は僕の作品よりも深さがあるのかもしれない。ただ、声に出して読んだときのすわりの悪さはどうしても看過することができない。形だけはショートメッセージでありながら、内実はエッセイをやっているのです。そこにはショートメッセージであることの断念を欠いている。
選評がないので詳しい授賞理由がわかりませんが、「ショートメッセージでエッセイをやったことが斬新」ということなのかもしれません。僕のショートメッセージ観が全てだとも思わないし、絶対的に正しいと言うつもりもない。確固たる価値基準の下に選考がされたのであればそれはそれでいいわけです。ただ今回はどうも選考委員のショートメッセージ観が見えない。そこにはショートメッセージの美学が存在しているようには見えない。そこに僕は強い怒りを覚えるのです。
だって・・ショートメッセンジャーだもの。
by sound-and-vision
| 2008-07-05 13:04