2008年 08月 22日
オリヴィエ・アサイヤスのこと |
オリヴィエ・アサイヤスの作品を集中的に観た。
『レディ・アサシン』(2007)
『CLEAN』(2004)
『デーモンラヴァー』(2002)
『冷たい水』(1994)
『イルマ・ヴェップ』(1996)
実はどれも未見だったのだけど、あまりの傑作ぶりに面食らってしまった。とりあえず『nobody』や『カイエ』を引っ張り出して読みあさっている。
映画には「作り手」、「役者」、「観客」がいる。「観客」が映画を観るとき、それは時制的にも物理的にも疎外されているのであって、その意味で観客席は「絶対安全」な場所であるはずだ。観客は映画に直接には関係できないが、それと引き換えに「絶対安全」なポジションが与えられている。
その日、私が『レディ・アサシン』を観たのは確かに「絶対安全」な場所のはずだったのだが、それは私の全くの思い込みであり、アサイヤスにとってはそんなもの初めから存在していないかのようだ。アサイヤス作品の暴力シーンはスクリーンの中にとどまってはいない。その暴力の射程は時間もスクリーンも飛び越え、「絶対安全」な観客席にまで及んでいる。ある暴力シーンの直後、殴られたのがまるで私であるかのように茫然としたし、また別のシーンの後には、取り乱しこそしなかったが、冷静さを保つことは困難だった。
アサイヤスは「絶対安全」と信じられている場所を隙さえあれば越境しようと試みる。アサイヤスの作品では、一時期の森山大道がそれ自体フレームを持っている路上のポスターを撮影していたように、ビデオカメラの映像やテレビ画面が映し出される。その数秒後、スクリーンのフレームはビデオカメラやテレビ画面のフレームと一致してしまい、観客はメタな位置から一段引きずりおろされる。その瞬間に「絶対安全」な場所は脅かされる。
暴力シーンもまた例外ではない。作品に対して観客はある意味で超越的に疎外されているが、暴力の瞬間には作品に引きずり込まれてしまう(メタ→ベタ)。※1
アサイヤスの暴力シーンは、その暴力が起こっている十数秒間、カメラは対象にかなり近接し、カットも多用される。何が起こっているのか全く判らず、十数秒の後に結果だけがぽつんと現れる。
蓮實重彦はハリウッド大作によく見られる「何が起きているのか判らないアクション」を批判している。しかし、アサイヤスの暴力とハリウッド大作のアクションとは決定的に異なる。ハリウッド大作のアクションにおけるカットの多用が往々にして、そのアクションに内在しない効果を得るため(たとえば「速さ」など。アクションを装飾するための)のテクニックであるのに対して、アサイヤスの暴力はその暴力に内在するもの(禍々しさなど)へと向かう。
説明されうる暴力など存在しない。指導者によって説明される暴力が歴史上いかに欺瞞であったか。決して説明されないアサイヤスの暴力はアサイヤス自身の倫理的要請のようにすら思える。
(少なくとも始りにおいては)大企業のスパイのサスペンスである『デーモンラヴァー』など、最近の作品では(特に『デーモンラヴァー』はそのテーマゆえに)残念ながらその暴力はハリウッド的な文脈で受容されてしまうのかもしれない。しかし、長回し、ロングショット、カットを切り返さない対話(これは現在の作品にも顕著だ)、長距離の移動撮影、新たな対象へゆるやかな移動(『デーモンラヴァー』冒頭の空港のシーンにも見られる)、独特で実験的でほとんど魔法のようなカメラワークに満たされた『冷たい水』(1994)においてもアヤイヤスの暴力は存在している。他のシーンが比較的ゆったりしているだけに、際立った暴力シーンはほとんど場違いのようだ。アサイヤスの暴力シーンは一貫していて、それは間違いなく確信犯的なものだ。
『デーモンラヴァー』における暴力のあり方は、青山真治の『HELPLESS』におけるそれと非常に似ている。近代(『デーモンラヴァー』ではそれを「資本主義」と言い換えてもいい)というシステムに抑圧されたものたちが禍々しいもの(=暴力)として再帰する。それは抑圧されたものの総体であるがゆえに、説明することができない。禍々しいもの(=暴力)は暴力としてそのままに、ごろりとした生々しい手触りを保ったままに提示されるほかにない。
『デーモンラヴァー』の後半は説明不足のままに物語が進行する。だがこれは前回述べた『崖の上のポニョ』の後半の説明不足とは異なる。『デーモンラヴァー』の後半は、抑圧されたものの再帰であり、それは説明されるものではないし、そもそも説明しうるものでもない。
『デーモンラヴァー』は「誰が超越的存在(メタ)なのか」という立ち位置争い(資本主義的な勝ち負けとはそういうことだろう)が、いつしか脱線し、スライドし、生存や愛に直結してしまう。相対化しうるものが相対化できないものへと移動していく。メタはベタへと変容する。
『デーモン』=「資本主義」「生を奪うもの」と『ラヴァー』=「愛する人」が交錯する地平にオリヴィエ・アサイヤスは立っている。
※1)『イルマ・ヴェップ』での映画ジャーナリストの質問に答えるマギー・チャンや『デーモンラヴァー』の終盤でディアーヌとエルヴェが食事をするシーンでのディアーヌの「あなたは何も見えていないのね。もっとよく見て」という、あたかも映画評論家に対するアレゴリカルな批判(?)とも取れる発言は、まるでアサイヤス自身の言葉であるようだ。ここでは「役者」というメタな存在が「作り手」というベタな存在と重なっている。
『レディ・アサシン』(2007)
『CLEAN』(2004)
『デーモンラヴァー』(2002)
『冷たい水』(1994)
『イルマ・ヴェップ』(1996)
実はどれも未見だったのだけど、あまりの傑作ぶりに面食らってしまった。とりあえず『nobody』や『カイエ』を引っ張り出して読みあさっている。
映画には「作り手」、「役者」、「観客」がいる。「観客」が映画を観るとき、それは時制的にも物理的にも疎外されているのであって、その意味で観客席は「絶対安全」な場所であるはずだ。観客は映画に直接には関係できないが、それと引き換えに「絶対安全」なポジションが与えられている。
その日、私が『レディ・アサシン』を観たのは確かに「絶対安全」な場所のはずだったのだが、それは私の全くの思い込みであり、アサイヤスにとってはそんなもの初めから存在していないかのようだ。アサイヤス作品の暴力シーンはスクリーンの中にとどまってはいない。その暴力の射程は時間もスクリーンも飛び越え、「絶対安全」な観客席にまで及んでいる。ある暴力シーンの直後、殴られたのがまるで私であるかのように茫然としたし、また別のシーンの後には、取り乱しこそしなかったが、冷静さを保つことは困難だった。
アサイヤスは「絶対安全」と信じられている場所を隙さえあれば越境しようと試みる。アサイヤスの作品では、一時期の森山大道がそれ自体フレームを持っている路上のポスターを撮影していたように、ビデオカメラの映像やテレビ画面が映し出される。その数秒後、スクリーンのフレームはビデオカメラやテレビ画面のフレームと一致してしまい、観客はメタな位置から一段引きずりおろされる。その瞬間に「絶対安全」な場所は脅かされる。
暴力シーンもまた例外ではない。作品に対して観客はある意味で超越的に疎外されているが、暴力の瞬間には作品に引きずり込まれてしまう(メタ→ベタ)。※1
アサイヤスの暴力シーンは、その暴力が起こっている十数秒間、カメラは対象にかなり近接し、カットも多用される。何が起こっているのか全く判らず、十数秒の後に結果だけがぽつんと現れる。
蓮實重彦はハリウッド大作によく見られる「何が起きているのか判らないアクション」を批判している。しかし、アサイヤスの暴力とハリウッド大作のアクションとは決定的に異なる。ハリウッド大作のアクションにおけるカットの多用が往々にして、そのアクションに内在しない効果を得るため(たとえば「速さ」など。アクションを装飾するための)のテクニックであるのに対して、アサイヤスの暴力はその暴力に内在するもの(禍々しさなど)へと向かう。
説明されうる暴力など存在しない。指導者によって説明される暴力が歴史上いかに欺瞞であったか。決して説明されないアサイヤスの暴力はアサイヤス自身の倫理的要請のようにすら思える。
(少なくとも始りにおいては)大企業のスパイのサスペンスである『デーモンラヴァー』など、最近の作品では(特に『デーモンラヴァー』はそのテーマゆえに)残念ながらその暴力はハリウッド的な文脈で受容されてしまうのかもしれない。しかし、長回し、ロングショット、カットを切り返さない対話(これは現在の作品にも顕著だ)、長距離の移動撮影、新たな対象へゆるやかな移動(『デーモンラヴァー』冒頭の空港のシーンにも見られる)、独特で実験的でほとんど魔法のようなカメラワークに満たされた『冷たい水』(1994)においてもアヤイヤスの暴力は存在している。他のシーンが比較的ゆったりしているだけに、際立った暴力シーンはほとんど場違いのようだ。アサイヤスの暴力シーンは一貫していて、それは間違いなく確信犯的なものだ。
『デーモンラヴァー』における暴力のあり方は、青山真治の『HELPLESS』におけるそれと非常に似ている。近代(『デーモンラヴァー』ではそれを「資本主義」と言い換えてもいい)というシステムに抑圧されたものたちが禍々しいもの(=暴力)として再帰する。それは抑圧されたものの総体であるがゆえに、説明することができない。禍々しいもの(=暴力)は暴力としてそのままに、ごろりとした生々しい手触りを保ったままに提示されるほかにない。
『デーモンラヴァー』の後半は説明不足のままに物語が進行する。だがこれは前回述べた『崖の上のポニョ』の後半の説明不足とは異なる。『デーモンラヴァー』の後半は、抑圧されたものの再帰であり、それは説明されるものではないし、そもそも説明しうるものでもない。
『デーモンラヴァー』は「誰が超越的存在(メタ)なのか」という立ち位置争い(資本主義的な勝ち負けとはそういうことだろう)が、いつしか脱線し、スライドし、生存や愛に直結してしまう。相対化しうるものが相対化できないものへと移動していく。メタはベタへと変容する。
『デーモン』=「資本主義」「生を奪うもの」と『ラヴァー』=「愛する人」が交錯する地平にオリヴィエ・アサイヤスは立っている。
※1)『イルマ・ヴェップ』での映画ジャーナリストの質問に答えるマギー・チャンや『デーモンラヴァー』の終盤でディアーヌとエルヴェが食事をするシーンでのディアーヌの「あなたは何も見えていないのね。もっとよく見て」という、あたかも映画評論家に対するアレゴリカルな批判(?)とも取れる発言は、まるでアサイヤス自身の言葉であるようだ。ここでは「役者」というメタな存在が「作り手」というベタな存在と重なっている。
by sound-and-vision
| 2008-08-22 21:51