2008年 08月 31日
サンプル『家族の肖像』 |
サンプル『家族の肖像』(8/22〜8/31 五反田アトリエヘリコプター)を観た。傑作だと思う。
「近代」とはつまり、良くも悪くも「普通」という虚構が中心的な場所に据えられた時代だといえる。「普通の家族」とは、父親と母親と子供を構成要員とする核家族。「普通」の経営とは、ムダを省いた効率的なもの。「普通の交際」とは、一対一の男女関係。
『家族の肖像』は近代の「普通」によって周縁へと隠蔽されたものの話だと思った(「家族」の表象である食卓はステージの隅に置かれている)。『家族の肖像』の登場人物たちは近代的「普通」の基準に照らした場合、明らかな過剰ないし欠損を抱えていることになる。父親がいない家庭。子供がいない家庭。一対一ではない男女交際。ひきこもり。マゾな店長。元いじめられっこ。彼らは、「普通」ではない。
にもかかわらず、近代的普通さは、それらをまるで「なかったもの」として振る舞うことを要求するだろう。それが近代的な「社会」や「世間体」や「空気」というものの正体で、そこでは各人が抱える「私」なるものは単一ではありえない。本音の「私」と建前の「私」。
物語が進むにつれて、近代的な「普通」さは音をたてて崩れていき、近代が隠蔽していたものが露見することになる。近代のダブルバインドに耐えきれない彼らのアイデンティティーは危機的状態におかれている。「私はからっぽなの」と言う若い女性。名前をもたない万引き少女(彼女は近代の病理を体現したようなキャラだと思う)。
その中で唯一、社会と関わりももたず、欲望に忠実なひきこもりの中年だけは「私」の単一性を保つことができている。彼のホーミーに他の登場人物が夢遊病のように引きつけられる。ひきこもり中年が犬(劇中でダックスフンドの真似をする)で他の人物が羊と表現されるのは偶然ではない。夢遊病で表現されているものとは深層心理(本音)であって、ベタに生きることができるひきこもり中年への屈折した憧れではないだろうか。
近代的なものの崩壊は他にも見られる。三角関係に悩む若者たちは、自分たちだけの話し合いでは解決策を見つけることができず、かつての恩師に相談しに行く。ここでの恩師とは近代の「大きな物語」のメタファーだろう。若者たちは「大きな物語」の復興を願うのだが、恩師は解決策を提示できない。その後に続く若者の「ここから新しい歴史を刻む」という台詞は印象的だが、直後の若者たちのいざこざは、「大きな物語」なき後に刻みうる歴史の不確実なイメージをさらに強烈に残してしまう。
ラストにもさまざまな解釈があると想像するのだけれど、私は結論を欠いた「二つの宙づり」だと思った。
それまで周縁に置かれていた食卓がステージ中央に移動させられ、それぞれの家庭をもっている登場人物たちが一つになり、まさに家族的なイメージが提示されるのだが、祖母のポジションに収まるべき女性がなぜか赤ちゃんになっている。近代(モダン)の後のポストモダン社会とは全ての価値が対等な多文化主義であるはずで、多文化主義とは過剰や欠損も等しく受け入れられる社会であり、彼らは彼らのままの生活で肯定されるはずなのだが、彼らは歪な一つの家族を選ぶ。
もう一つは、深層心理の部分で皆の憧れであったはずのひきこもり中年の自死が暗示される。ひきこもり中年は東浩紀がいうところの「動物」にあたるのだが、ポストモダン社会においても「動物」は生きられないということなのだろうか。
この二つのラストは結論することを避け、微妙で繊細なままに宙吊られている。
ということを考えていたら、客席の中途半端な(役者が頭を傾げなければいけないような)高さは、「宙吊り」と呼ぶのにぴったりな高さではないだろうか、と思った。
「近代」とはつまり、良くも悪くも「普通」という虚構が中心的な場所に据えられた時代だといえる。「普通の家族」とは、父親と母親と子供を構成要員とする核家族。「普通」の経営とは、ムダを省いた効率的なもの。「普通の交際」とは、一対一の男女関係。
『家族の肖像』は近代の「普通」によって周縁へと隠蔽されたものの話だと思った(「家族」の表象である食卓はステージの隅に置かれている)。『家族の肖像』の登場人物たちは近代的「普通」の基準に照らした場合、明らかな過剰ないし欠損を抱えていることになる。父親がいない家庭。子供がいない家庭。一対一ではない男女交際。ひきこもり。マゾな店長。元いじめられっこ。彼らは、「普通」ではない。
にもかかわらず、近代的普通さは、それらをまるで「なかったもの」として振る舞うことを要求するだろう。それが近代的な「社会」や「世間体」や「空気」というものの正体で、そこでは各人が抱える「私」なるものは単一ではありえない。本音の「私」と建前の「私」。
物語が進むにつれて、近代的な「普通」さは音をたてて崩れていき、近代が隠蔽していたものが露見することになる。近代のダブルバインドに耐えきれない彼らのアイデンティティーは危機的状態におかれている。「私はからっぽなの」と言う若い女性。名前をもたない万引き少女(彼女は近代の病理を体現したようなキャラだと思う)。
その中で唯一、社会と関わりももたず、欲望に忠実なひきこもりの中年だけは「私」の単一性を保つことができている。彼のホーミーに他の登場人物が夢遊病のように引きつけられる。ひきこもり中年が犬(劇中でダックスフンドの真似をする)で他の人物が羊と表現されるのは偶然ではない。夢遊病で表現されているものとは深層心理(本音)であって、ベタに生きることができるひきこもり中年への屈折した憧れではないだろうか。
近代的なものの崩壊は他にも見られる。三角関係に悩む若者たちは、自分たちだけの話し合いでは解決策を見つけることができず、かつての恩師に相談しに行く。ここでの恩師とは近代の「大きな物語」のメタファーだろう。若者たちは「大きな物語」の復興を願うのだが、恩師は解決策を提示できない。その後に続く若者の「ここから新しい歴史を刻む」という台詞は印象的だが、直後の若者たちのいざこざは、「大きな物語」なき後に刻みうる歴史の不確実なイメージをさらに強烈に残してしまう。
ラストにもさまざまな解釈があると想像するのだけれど、私は結論を欠いた「二つの宙づり」だと思った。
それまで周縁に置かれていた食卓がステージ中央に移動させられ、それぞれの家庭をもっている登場人物たちが一つになり、まさに家族的なイメージが提示されるのだが、祖母のポジションに収まるべき女性がなぜか赤ちゃんになっている。近代(モダン)の後のポストモダン社会とは全ての価値が対等な多文化主義であるはずで、多文化主義とは過剰や欠損も等しく受け入れられる社会であり、彼らは彼らのままの生活で肯定されるはずなのだが、彼らは歪な一つの家族を選ぶ。
もう一つは、深層心理の部分で皆の憧れであったはずのひきこもり中年の自死が暗示される。ひきこもり中年は東浩紀がいうところの「動物」にあたるのだが、ポストモダン社会においても「動物」は生きられないということなのだろうか。
この二つのラストは結論することを避け、微妙で繊細なままに宙吊られている。
ということを考えていたら、客席の中途半端な(役者が頭を傾げなければいけないような)高さは、「宙吊り」と呼ぶのにぴったりな高さではないだろうか、と思った。
by sound-and-vision
| 2008-08-31 01:29