2008年 09月 05日
所沢ビエンナーレあるいはブルース的解体 |
デュシャンが『泉』で明らかにしたように、美術館というシステムは、そこに並べられたものをある種暴力的に美術作品として存在させてしまう。美術館とは与える者であり、作品とは与えられる者として関係している。
写真からもわかる通り、この美術展は美術館ではなく工場で開催されている。
この美術展は、従来のように美術館が作品を規定するのとは逆の手続きがとられていて、工場は作品が存在することによって半ば暴力的に「美術館」と読み替えられている。この読み替えが成立しているのは、例えば写真の消化器のように、美術展に関係なく工場にかつてから普通に存在していたものをあたかも美術作品のように錯覚させてしまうことがその証左となろう。
今回の美術展では、手塚愛子の『織物をほどく』という作品が良かった。
世の中の多くのモノ(オブジェクト)は、確定記述で表すことができる。例えば、
「ボールペン」であれば「インク」、「バネ」、「ゴム」・・のように各要素に分解して表現できるし、逆にその束によって「ボールペン」を再現することができる。
「オブジェクト」という言葉自体が「プログラミング(≒確定記述)」の集積といった意味を持っている。
これが例えば人物ということになると事態はそう上手くいかない。織田信長を例にとれば、「桶狭間の戦いに勝った」、「本能寺の変で殺害された」・・・と記述を重ねていったとしても、その束によって「織田信長」そのものは表しえない。自分自身のことを確定記述の束によって表せるかを考えればいい。そこにはどれだけ確定記述に還元できない「余剰」が存在してしまう。
手塚は本来モノ(確定記述で表せる)と考えられている「織物」に「余剰」を見出している。さまざまな色の糸が束となり、織り合わされることで「織物」ができていることは間違いない。常識的に考えて、そうであれば、織物は糸へと還元できるばずだし、解体途中の部分は完成した織物の部分と要素としては同じはずだ。しかし、解体される途中の『織物をほどく』を前にすると、「織物」に宿る「余剰」があるかのように思えてならない。
西洋音楽のコードに従って作曲された音楽は基本的に楽譜に書き写すことができる。しかし、必ずしも十二音の音階に従がわず、多くの倍音を含むブルースやある種の民族音楽は譜面に書き写すことが非常に難しい。
手塚は織物に対して、ブルース的なものを見ている。それは解体の作業の中で逆説的に発見されるものだ。
by sound-and-vision
| 2008-09-05 14:42