2008年 10月 10日
DIRECT CONTACT Vol.2 |
もう一ヶ月前のことになるが、大谷能生さんと木村覚さんが企画している『DIRECT CONTACT Vol.2』(第一部:大橋可也&ダンサーズ 『Black Swan』、第二部:秋山徹次(acoustic guitar)&中村としまる(no-input mixing board) 「The Stake (for acoustic guitar and electronics)」に行った。
その時に考えたこと。
「ある曲」が「その曲」である、という同一性はどのようにして担保されているだろうか。音楽はそれを演奏(再生)する装置、聴取者との距離や角度、気温や湿度その他の環境条件によって多少なりとも変化するものであり、厳密な意味で「同じ曲」は存在しない。もっとも、波形編集ソフトや楽譜のように楽曲の情報を視覚化した場合、あの曲とこの曲が同一のものであると指摘することはできる。しかし、視覚化された曲がそもそも「曲」であるかどうかをめぐる議論はまた別種のものである。ここではあくまで、空気震動の波が人間の鼓膜を震わせるものに限って音と名指している。
厳密な定義の上では「同じ曲」は存在しないが、実際の認識の上では「同じ曲」の領域はかなり広い。原曲とはキーが異なっていても、ノイズにまみれるラジオから流れていても、鼻歌であっても、オーケストラによって演奏されていても、私たちは「ある曲」を同一の「その曲」として認識することが可能である。
おそらく、人が「ある曲」を「その曲」であると判断するプロセスとは、「ある曲」を単純な要素に変換し、脳内のデータベースにアーカイブされた要素と照合を行うことだと考えられる。あくまで推測の域は出ないものの、アーカイブされている楽曲もまた原曲に比べれば大きく単純化されていであろうことは想像に難くない。
そして、私たちはアーカイブについてはもう一つ、コード進行やリズムに関してのそれも持っているはずである。私たちはそれによって聴こえる音が「何かの曲であるらしい」と判断することができる。特殊な場合を除いて、自然の音や人の声が楽曲として認識されないのはそのためであろう。
この二つのアーカイブによって、「何かの曲であるらしい」と認識した音を「知らない曲」と判断することも可能になる。つまり、ある音を知覚した際、まずは後者のコードやリズムのアーカイブへの参照によって「何かの曲であるらしい」という判断が下され、次に前者の「既知の曲」のアーカイブに参照することにより、「知っている曲」であるか、そうでなければ「知らない曲」として判断を下すことになる。一旦、「知っている曲」ないし「知らない曲」と位置付けてしまえば、それ以降は「既知の曲」のアーカイブへの積極的な参照を行う必要はなくなり、聴取者は言わば安定した聴取が可能となる。
秋山徹次の『The Stake (for acoustic guitar and electronics)』は、一聴する限りにおいて、発せられる音は基本的にはそれぞれ独立しており、互いに関係を持っていないような印象を与える。それゆえに、聴取者は「これは自然の音や人の声と同列のものであり、つまり楽曲ではないのではないか」と錯覚する。しかしながら、記憶の淵をなぞるような音の連なりやコードが時折挟み込まれることで、聴取者は「これは何かの曲であるらしい」という判断を誘発させられる。コードやリズムのアーカイブへの参照により「何かの曲であるらしい」という判断は出来るものの、「既知の曲」のアーカイブを参照するにはその情報量が決定的に少ない。そのために、「何かの曲であるらしい」という判断に続く、「知っている曲」/「知らない曲」という判断は延々と先送られる。この状況下に置かれた聴取者にはもはや安定した聴取の機会は与えられず、自らのアーカイブへの不断の参照を強いられることになるだろう。
デレク・ベイリーが、あらゆる音楽的なイディオムを用いることを慎重に回避した即興演奏の可能性を探求したのに対し、一方の秋山の場合は、音楽的なイディオムと非イディオムとを混在させることで、着地点を隠蔽した、マージナルな即興演奏の可能性を探求している言える。ここまでが、秋山徹次と中村としまるのデュオにおける最初の十分間、ほぼ秋山のソロとして演奏された部分である。
中村が参加して以降は、互いの音が関係することによって生じる位相の変化が、試みの中心であったように思える。二人の音の関係を構築するための特長は次のようなものである。一つは、秋山のノイズ成分の少ないアコースティック・ギターとノイズ成分の多い中村のノー・インプット・ミキシング・ボードとの音像の解像度の違い。もう一つは、ステージ中央で生音で演奏する秋山に対し、会場の左右に置かれたスピーカーから発せられる中村の音、という音の発生源の違い。また、秋山の音量がほぼ固定されているのに対して、中村の音量はときに微かであり、ときに増幅され圧倒的であったこと(現に、秋山の音は中村の音に飲み込まれてしまう瞬間が何度もあった)。これらの物理的な差異により、中村の音は空間環境に対してのヘゲモニーを握ることになり、環境の変化に応じて秋山の音はその意味を絶え間なく更新されることになる。秋山の音のシニフィエ/シニフィアンは中村の音により分断され、シニフィエは一つ所に固定することを許されず、浮遊し続ける。ここでの試みも、マージナルな場所の探求であると結論することができる。
DIRECT CONTACTのもう一方、大橋可也&ダンサーズ『Black Swan』はいかなるものであったか。冒頭、雑然と放り出されたままの四つのパイプ椅子は、あたかも彼らによって希求された「理想」を具現化するかのように相対して並べられる。しかしながら、四人のダンサーの総てが穏健さのうちに差し向かう時間は終ぞ訪れることはないだろう。彼らの五感、さらには視線のような、拡張した五感を含めた一切は、発現であれ知覚であれ、他者に対しては閉じられている。視線は交わらないし、声は届かない。彼らはそれぞれ孤独に存在し、それぞれの世界をそれぞれが生きている。かつて、世界と歴史との関係は不可分のものであったはずだが、世界の方が細分化し、究極的には個人のものとなってしまった現在では、歴史を紡ぐことはできないし、そもそもその必要性すら認められない。彼らは歴史とは無縁のどこでもない場所を無時間的に生きている。徹底して個別的と言っていい状況を観察してきた観客は、結末において、決定的な事態の転換を目にすることになる。野狐禅の『少年花火』を歌う女性の背後で二人の男性の取っ組み合いがはじまる。力と力のぶつかり合う、その暴力的な場面がとてつもなく甘美で希望的なものに見えるのは、それが冒頭の並べられた四つの椅子のミニマルなバリエーションであり、「理想」の萌芽であるからに他ならない。先に述べた「彼ら」とは、社会性という大きなものを未だ十分には獲得してはいない「少年少女」の代名詞であり、社会的なコミュニケーションを拒絶した「ひきこもり」の代名詞であり、ことばを覚え始めた「幼児」の代名詞である。想像界から象徴界への移行は去勢を伴って行われるのであり、『Black Swan』が描くものはその移行の過程であり、移行の瞬間である。
想像界から象徴界への移行についてのこの物語は、作品内の別のものによって先行されている。それは音響である。作品の冒頭から中盤にかけて、スピーカーからは自動車の走行音がたびたび流れてくる。しかし、その車両のどれもが、彼ら四人がいる「この場所」には決して停車することなく走り抜けてゆく。車両と「この場所」は関係を構築する機会をただ只管逸するばかりである。出来事は作品中盤に生じる。それまで通り過ぎるだけであった「この場所」に多くのものが集う。だが、決してそれは理想的なものの集いではない。けたたましいヘリコプターのプロペラ音と救急車のサイレンに彩られたその状況は、戦争、ないしは災禍を思わせる。しかし、暴力的な音響に埋め尽くされたその渦中にあって、一人の女性(=Black Swan)は優美にただ一度だけ羽ばたいて見せるのである。
つまり、『Black Swan』ではダンサーの身体を中心に表現されるものと、音響を中心に表現されるものとがほぼ同一であり、その二つのものが時間的に不可分に合致していることを究極の理想としながらも、あくまで二つのものの進行は独立しており、時間的には交わらない。しかし、別の見方をするならば、作品という超越的な主体の裡に同一なものの二つのバリエーションが内包されている様は、「理想」に至る過程における不可避的な疼痛のようなものであり、それは先述の「理想」の萌芽と捉えることもまた可能であろう。
秋山徹次の『The Stake (for acoustic guitar and electronics)』も大橋可也&ダンサーズの『Black Swan』も、複数の異なるものが織りなす関係についての表現であったことを思い起こせば、DIRECT CONTACTという企画自体が演奏行為と身体表現というジャンル的にも異なるものを同一の空間に投げ出すことによって生じる関係を注視することをその目論みとしていることに改めて思い至る。DIRECT CONTACTは入れ子構造的に「複数の異なるもののが織りなす関係」のバリエーションを孕みながら、ある理想的な関係を目指す道程に、様々な階層にいくつもの「理想」の萌芽を呈示してみせるのである。
その時に考えたこと。
「ある曲」が「その曲」である、という同一性はどのようにして担保されているだろうか。音楽はそれを演奏(再生)する装置、聴取者との距離や角度、気温や湿度その他の環境条件によって多少なりとも変化するものであり、厳密な意味で「同じ曲」は存在しない。もっとも、波形編集ソフトや楽譜のように楽曲の情報を視覚化した場合、あの曲とこの曲が同一のものであると指摘することはできる。しかし、視覚化された曲がそもそも「曲」であるかどうかをめぐる議論はまた別種のものである。ここではあくまで、空気震動の波が人間の鼓膜を震わせるものに限って音と名指している。
厳密な定義の上では「同じ曲」は存在しないが、実際の認識の上では「同じ曲」の領域はかなり広い。原曲とはキーが異なっていても、ノイズにまみれるラジオから流れていても、鼻歌であっても、オーケストラによって演奏されていても、私たちは「ある曲」を同一の「その曲」として認識することが可能である。
おそらく、人が「ある曲」を「その曲」であると判断するプロセスとは、「ある曲」を単純な要素に変換し、脳内のデータベースにアーカイブされた要素と照合を行うことだと考えられる。あくまで推測の域は出ないものの、アーカイブされている楽曲もまた原曲に比べれば大きく単純化されていであろうことは想像に難くない。
そして、私たちはアーカイブについてはもう一つ、コード進行やリズムに関してのそれも持っているはずである。私たちはそれによって聴こえる音が「何かの曲であるらしい」と判断することができる。特殊な場合を除いて、自然の音や人の声が楽曲として認識されないのはそのためであろう。
この二つのアーカイブによって、「何かの曲であるらしい」と認識した音を「知らない曲」と判断することも可能になる。つまり、ある音を知覚した際、まずは後者のコードやリズムのアーカイブへの参照によって「何かの曲であるらしい」という判断が下され、次に前者の「既知の曲」のアーカイブに参照することにより、「知っている曲」であるか、そうでなければ「知らない曲」として判断を下すことになる。一旦、「知っている曲」ないし「知らない曲」と位置付けてしまえば、それ以降は「既知の曲」のアーカイブへの積極的な参照を行う必要はなくなり、聴取者は言わば安定した聴取が可能となる。
秋山徹次の『The Stake (for acoustic guitar and electronics)』は、一聴する限りにおいて、発せられる音は基本的にはそれぞれ独立しており、互いに関係を持っていないような印象を与える。それゆえに、聴取者は「これは自然の音や人の声と同列のものであり、つまり楽曲ではないのではないか」と錯覚する。しかしながら、記憶の淵をなぞるような音の連なりやコードが時折挟み込まれることで、聴取者は「これは何かの曲であるらしい」という判断を誘発させられる。コードやリズムのアーカイブへの参照により「何かの曲であるらしい」という判断は出来るものの、「既知の曲」のアーカイブを参照するにはその情報量が決定的に少ない。そのために、「何かの曲であるらしい」という判断に続く、「知っている曲」/「知らない曲」という判断は延々と先送られる。この状況下に置かれた聴取者にはもはや安定した聴取の機会は与えられず、自らのアーカイブへの不断の参照を強いられることになるだろう。
デレク・ベイリーが、あらゆる音楽的なイディオムを用いることを慎重に回避した即興演奏の可能性を探求したのに対し、一方の秋山の場合は、音楽的なイディオムと非イディオムとを混在させることで、着地点を隠蔽した、マージナルな即興演奏の可能性を探求している言える。ここまでが、秋山徹次と中村としまるのデュオにおける最初の十分間、ほぼ秋山のソロとして演奏された部分である。
中村が参加して以降は、互いの音が関係することによって生じる位相の変化が、試みの中心であったように思える。二人の音の関係を構築するための特長は次のようなものである。一つは、秋山のノイズ成分の少ないアコースティック・ギターとノイズ成分の多い中村のノー・インプット・ミキシング・ボードとの音像の解像度の違い。もう一つは、ステージ中央で生音で演奏する秋山に対し、会場の左右に置かれたスピーカーから発せられる中村の音、という音の発生源の違い。また、秋山の音量がほぼ固定されているのに対して、中村の音量はときに微かであり、ときに増幅され圧倒的であったこと(現に、秋山の音は中村の音に飲み込まれてしまう瞬間が何度もあった)。これらの物理的な差異により、中村の音は空間環境に対してのヘゲモニーを握ることになり、環境の変化に応じて秋山の音はその意味を絶え間なく更新されることになる。秋山の音のシニフィエ/シニフィアンは中村の音により分断され、シニフィエは一つ所に固定することを許されず、浮遊し続ける。ここでの試みも、マージナルな場所の探求であると結論することができる。
DIRECT CONTACTのもう一方、大橋可也&ダンサーズ『Black Swan』はいかなるものであったか。冒頭、雑然と放り出されたままの四つのパイプ椅子は、あたかも彼らによって希求された「理想」を具現化するかのように相対して並べられる。しかしながら、四人のダンサーの総てが穏健さのうちに差し向かう時間は終ぞ訪れることはないだろう。彼らの五感、さらには視線のような、拡張した五感を含めた一切は、発現であれ知覚であれ、他者に対しては閉じられている。視線は交わらないし、声は届かない。彼らはそれぞれ孤独に存在し、それぞれの世界をそれぞれが生きている。かつて、世界と歴史との関係は不可分のものであったはずだが、世界の方が細分化し、究極的には個人のものとなってしまった現在では、歴史を紡ぐことはできないし、そもそもその必要性すら認められない。彼らは歴史とは無縁のどこでもない場所を無時間的に生きている。徹底して個別的と言っていい状況を観察してきた観客は、結末において、決定的な事態の転換を目にすることになる。野狐禅の『少年花火』を歌う女性の背後で二人の男性の取っ組み合いがはじまる。力と力のぶつかり合う、その暴力的な場面がとてつもなく甘美で希望的なものに見えるのは、それが冒頭の並べられた四つの椅子のミニマルなバリエーションであり、「理想」の萌芽であるからに他ならない。先に述べた「彼ら」とは、社会性という大きなものを未だ十分には獲得してはいない「少年少女」の代名詞であり、社会的なコミュニケーションを拒絶した「ひきこもり」の代名詞であり、ことばを覚え始めた「幼児」の代名詞である。想像界から象徴界への移行は去勢を伴って行われるのであり、『Black Swan』が描くものはその移行の過程であり、移行の瞬間である。
想像界から象徴界への移行についてのこの物語は、作品内の別のものによって先行されている。それは音響である。作品の冒頭から中盤にかけて、スピーカーからは自動車の走行音がたびたび流れてくる。しかし、その車両のどれもが、彼ら四人がいる「この場所」には決して停車することなく走り抜けてゆく。車両と「この場所」は関係を構築する機会をただ只管逸するばかりである。出来事は作品中盤に生じる。それまで通り過ぎるだけであった「この場所」に多くのものが集う。だが、決してそれは理想的なものの集いではない。けたたましいヘリコプターのプロペラ音と救急車のサイレンに彩られたその状況は、戦争、ないしは災禍を思わせる。しかし、暴力的な音響に埋め尽くされたその渦中にあって、一人の女性(=Black Swan)は優美にただ一度だけ羽ばたいて見せるのである。
つまり、『Black Swan』ではダンサーの身体を中心に表現されるものと、音響を中心に表現されるものとがほぼ同一であり、その二つのものが時間的に不可分に合致していることを究極の理想としながらも、あくまで二つのものの進行は独立しており、時間的には交わらない。しかし、別の見方をするならば、作品という超越的な主体の裡に同一なものの二つのバリエーションが内包されている様は、「理想」に至る過程における不可避的な疼痛のようなものであり、それは先述の「理想」の萌芽と捉えることもまた可能であろう。
秋山徹次の『The Stake (for acoustic guitar and electronics)』も大橋可也&ダンサーズの『Black Swan』も、複数の異なるものが織りなす関係についての表現であったことを思い起こせば、DIRECT CONTACTという企画自体が演奏行為と身体表現というジャンル的にも異なるものを同一の空間に投げ出すことによって生じる関係を注視することをその目論みとしていることに改めて思い至る。DIRECT CONTACTは入れ子構造的に「複数の異なるもののが織りなす関係」のバリエーションを孕みながら、ある理想的な関係を目指す道程に、様々な階層にいくつもの「理想」の萌芽を呈示してみせるのである。
by sound-and-vision
| 2008-10-10 21:44