2008年 11月 16日
多和田葉子『時差』 |
多和田葉子の『海に落とした名前』に所収の『時差』を読んだ。あえて説明する必要もないとは思うが、多和田葉子は日本語の作品もドイツ語の作品も出版している。おそらくは、言葉(そして翻訳)の可能性/不可能性に最も意識的な現代作家の一人と言って差し支えない。
『時差』はそのオブセッシブなまでの問題意識が落とし込まれている。
バベルの塔が崩壊してしまった世界では、一つのモノはいくつもの言語で表される。言語が氾濫する世界を観察しようとするならば、必然的にそれは通時的な観察ではなく、共時的な観察へと向かう。『時差』においても、世界中の様々な場所(日本、ベルリン、NY)に住む三人が共時的に描写される。
『時差』では現実や夢、記憶、時間といった要素が従属関係に置かれないまま緩やかに綯い交ぜになっている。
過去形で書かれはじめた記憶はしだいに時制をずらしていく。文法に忠実に記述するのであれば、過去/現在は厳然と区別されるべきだ。しかしながら、主体にとっての記憶が、「いま・ここ」に現前性を伴って想起されるのであれば、現在形へとスライドして書かれることは「描写」という点においては極めて正当だと言える。
続く段落を引用する。
次の段落。
上段の引用の「目を覚まして~/夢の中で~」、そして下段の引用。
ここでは、二つのものが入れ替わることが強調されている。だがこれも一つの時間の流れに通時的にあるのではなく、流れているのはあくまで共時的な複数の時間である。しかしながら、「記述」という行為、そして、「文章」というメディアはオブジェクトレベルで見れば、頑なに通時的なものだ(*1)。出来事は一つずつ、言葉は一語ずつ綴られなければならない。この部分は、「文章」というメディアの強固に通時的な側面を白日の下に晒す試みであるように思える。
少し後に続く二カ所を引用してみる。
「東西ドイツの統一」、「カフェオレ」。
「入れ替わること」に続いて、今度は「混ざること」が強調される。
さらに続く箇所。
ここで行われているのは、「言葉」を超えた伝達である。この行為の根底にあるのは、言葉の限界、伝達の不可能性であろう。
『時差』では、タイトル通り、この二カ所が最も重要な点だと思われる。こここそまさにバベルの塔の崩壊であり、言葉の氾濫を表している。つまり、例えば「ア・イ」という音の繋がりがあるとき、日本語においては「愛」として、英語においては「I(わたし)」と理解されるように。
『新潮』の2008年1月号に掲載の『使者』という掌編もおそろしく完成度が高い。しばしば前衛的な作風として認識されがちな多和田葉子は、その本質において誰にも増して根源的な、言ってみれば「前衛」からは最も遠く離れた作家として再認識される必要がある。
*1)とはいえ、例えば一カ所に、つまり、書いた文字の上に次の文字を書いていけば、メディア的には共時的なものになるかもしれない。読める読めないは別にして。あるいは、もしかすると少年ジャンプ的な「ルビ」(「時間」を「とき」と読むような)は共時的な表記を体現できているのかもしれない、とも思う。むしろ、ある文章のルビ部に全く異なる文章をルビとして書くとか。
『時差』はそのオブセッシブなまでの問題意識が落とし込まれている。
バベルの塔が崩壊してしまった世界では、一つのモノはいくつもの言語で表される。言語が氾濫する世界を観察しようとするならば、必然的にそれは通時的な観察ではなく、共時的な観察へと向かう。『時差』においても、世界中の様々な場所(日本、ベルリン、NY)に住む三人が共時的に描写される。
『時差』では現実や夢、記憶、時間といった要素が従属関係に置かれないまま緩やかに綯い交ぜになっている。
スプーンを四十五度の角度でお椀にすべりこませ、大きく口を開けるときのマンフレッドのどこか幼児じみた仕草を思い出した。頬はふっくらしているが、身体には子供の柔らかさはどこにも残っていなかった。冬でも半袖しか着ないので剥き出しになった腕には筋肉が盛り上がり、肘から手首までが黄土色の巻き毛に覆われていた。(中略) すると、自分のものなのに遠くにあるように感じられる器官がそこだけ血の流れが速くなっていって、肉がつっぱっていく。マンフレッドは眠ったまま手を動かしていたのだろうか。そんなことを思い出しながらぼんやり台所に立っていたマモルは、壁の時計を見てはっとして、あわてて家を飛び出した。
過去形で書かれはじめた記憶はしだいに時制をずらしていく。文法に忠実に記述するのであれば、過去/現在は厳然と区別されるべきだ。しかしながら、主体にとっての記憶が、「いま・ここ」に現前性を伴って想起されるのであれば、現在形へとスライドして書かれることは「描写」という点においては極めて正当だと言える。
続く段落を引用する。
それから一時間ほど偶然のように静けさが続いていたが、やがて道に倒れていた酔っ払いが目を覚まして、昨日のモノローグの続きを叫びはじめる。 (中略) 夢の中で、マンフレッドは全裸で濡れた床にうつぶせに横たわっていた。
次の段落。
マイケルがニューヨークに戻る頃には、運が悪ければ(引用者註*ニューヨークに住む )自分はベルリンに戻らなければならないかもしれないのだ。
上段の引用の「目を覚まして~/夢の中で~」、そして下段の引用。
ここでは、二つのものが入れ替わることが強調されている。だがこれも一つの時間の流れに通時的にあるのではなく、流れているのはあくまで共時的な複数の時間である。しかしながら、「記述」という行為、そして、「文章」というメディアはオブジェクトレベルで見れば、頑なに通時的なものだ(*1)。出来事は一つずつ、言葉は一語ずつ綴られなければならない。この部分は、「文章」というメディアの強固に通時的な側面を白日の下に晒す試みであるように思える。
少し後に続く二カ所を引用してみる。
壁が崩れ、東西ドイツが統一されたとき、その家を返却してもらえる可能性があるらしいという話を両親がしきりとしていた時期があった。
マモルはその時、日本語上級の学生三人とカフェオレを飲んでいた。
「東西ドイツの統一」、「カフェオレ」。
「入れ替わること」に続いて、今度は「混ざること」が強調される。
さらに続く箇所。
マモルはいつも日曜日にマンフレッドに手紙を書く。今週はシラーの切手を貼った封筒の中身は、自分の身体の拓本だった。
ここで行われているのは、「言葉」を超えた伝達である。この行為の根底にあるのは、言葉の限界、伝達の不可能性であろう。
今日はマイケルと「いっしょに」ジムに行く日だ。いっしょというのは、電話して「これから行く」と確認し合い、場所は離れていても、同時にトレーニングするという意味だった。ニューヨークは早朝、マイケルのいる東京はもう夜だが、同時に行けば同時に汗をかいていることになる。
「こちらの時間で一時四十五分きっちりに乾杯って言って、同時に飲み干そう」
『時差』では、タイトル通り、この二カ所が最も重要な点だと思われる。こここそまさにバベルの塔の崩壊であり、言葉の氾濫を表している。つまり、例えば「ア・イ」という音の繋がりがあるとき、日本語においては「愛」として、英語においては「I(わたし)」と理解されるように。
『新潮』の2008年1月号に掲載の『使者』という掌編もおそろしく完成度が高い。しばしば前衛的な作風として認識されがちな多和田葉子は、その本質において誰にも増して根源的な、言ってみれば「前衛」からは最も遠く離れた作家として再認識される必要がある。
*1)とはいえ、例えば一カ所に、つまり、書いた文字の上に次の文字を書いていけば、メディア的には共時的なものになるかもしれない。読める読めないは別にして。あるいは、もしかすると少年ジャンプ的な「ルビ」(「時間」を「とき」と読むような)は共時的な表記を体現できているのかもしれない、とも思う。むしろ、ある文章のルビ部に全く異なる文章をルビとして書くとか。
by sound-and-vision
| 2008-11-16 03:23