2008年 11月 29日
オタクと批評とあと何か |
表現者が固有名を持つことと、それにファナティックな信者=オタクが生まれることは切り離し難いように思う。
逆に言えば、固有名がないところにおそらくオタクは生まれない。
オタクとは、その表現の価値決定の基準をその固有名自体に求める存在の謂なのだから。
「○○がいいのは、それが○○だから」
「○○」には前者にも後者にも同じものが入る。
自同律(同一律)のこの論理は、反批評的(コストゼロ)であり、無限大の肯定(あるいは否定)でもってして、つまるところ帰着するのは「無敵の自己肯定」ではなかろうか。*1
だから、固有名の周りを自己肯定志願者たちが取り囲む光景は当然のように見える。
その光景に関して、表現者が責任を感じる必要はないし、表現者の預かり知らぬところで事態は進行する。
表現者に対して批判の目を向けなければならない瞬間は、表現者が自己肯定志願者の顔色を窺った瞬間にやってくる。
いささか唐突だが、まずは「作家性」についての定義を考える必要があるように思う。
蓮實重彦は『監督小津安二郎』(ちくま学芸文庫)の冒頭で次のように述べている。
同著第IV章「立ちどまること」の中では、小津の映画の会話シーンに対する違和感を語るトリュフォーの言葉の後に次のように続く。
これこそ作家性であると言いたい。作家を作家たらしめているもの(それこそ作家性だが)、それを差し引いてしまえばもはやその作家の表現ではなくなるもの、言い換えれば、作家の倫理というもの。あるいは、作家の無意識もここに含まれると思う。上の引用に照らせば、無謀なつなぎを許さないということは、小津安二郎を否定することと同等のことだと言っていい。
「作家=作家の倫理=作家性」という等式はおそらく成り立つ。
作家と作家性の関係は「他者同士」ではない。当然ながらそこに「命懸けの飛躍」などなく、「作家=作家性」という地平がどこまでも広がっている。
蓮實が指摘するように、「○○的なもの」と「作家=作家性」とは関係ない。重なるとすれば、あくまで偶然でしかない。
「○○的なもの」の論理とオタク的自同律(同一律)とは基本的には近いところにあるのではないか。言うまでもなく、共通する最も重要な要素は「批評的視座の欠落」にある。何にしても、コストをかけずに何かを言ったような気になれるという構造は、自己肯定と非常に密接に関わっている。
先に書いた、「表現者が自己肯定志願者の顔色を窺う瞬間」とは、表現者が自ら「○○的なもの」をパスティーシュ(自己模倣)する瞬間だと思う。これに対しては思い切り軽蔑的な視線を投げつけてやればいい。
しかしながら問題は、現前のその表現が「作家の倫理」によるものであるのか、あるいは「パスティーシュ」によるものであるのかという判別にあるかと思う。つまり、受容者のリテラシーという問題だが、おそらくこれについては明確な鍛錬法などなく、自らの経験によって高めていくほかない。
ただなんとなく思うのは、オタク的自同律ではない見方をすること、「固有名」を限りなく透明に近づけていくこと、その先に立ち現れる風景こそ「作家=作家の倫理=作家性」の地平線なのではないか、ということだ。
*1
「無限大の否定による自己肯定」とは、例えばネット右翼の特定アジアへの反応
のようなもの
逆に言えば、固有名がないところにおそらくオタクは生まれない。
オタクとは、その表現の価値決定の基準をその固有名自体に求める存在の謂なのだから。
「○○がいいのは、それが○○だから」
「○○」には前者にも後者にも同じものが入る。
自同律(同一律)のこの論理は、反批評的(コストゼロ)であり、無限大の肯定(あるいは否定)でもってして、つまるところ帰着するのは「無敵の自己肯定」ではなかろうか。*1
だから、固有名の周りを自己肯定志願者たちが取り囲む光景は当然のように見える。
その光景に関して、表現者が責任を感じる必要はないし、表現者の預かり知らぬところで事態は進行する。
表現者に対して批判の目を向けなければならない瞬間は、表現者が自己肯定志願者の顔色を窺った瞬間にやってくる。
いささか唐突だが、まずは「作家性」についての定義を考える必要があるように思う。
蓮實重彦は『監督小津安二郎』(ちくま学芸文庫)の冒頭で次のように述べている。
誰もが小津を知っており、何の危険もともなわぬ遊戯として小津的な状況を生きうると確信しているのは、誰も小津安二郎の作品など見ていないからだ。小津的なものとは、瞳が画面を抹殺した後ではじめて可能となる映画とは無縁の遊戯にすぎない。小津安二郎の映画を現実に見つつある瞬間、人は、断じて小津的な遊戯を楽しむことなどできないだろう。というのも、小津安二郎のどの一篇をとってみても、それは小津的なものには決して似てはいないからである。
同著第IV章「立ちどまること」の中では、小津の映画の会話シーンに対する違和感を語るトリュフォーの言葉の後に次のように続く。
映画作家フランソワ・トリュフォーが襲われたこの奇妙な印象は、とうぜんのことながら多くの批評家がイマジナリー・ラインの法則の無視と呼び、そして観客たちが小津の映画で実感しえたものだ。つまり、瞳は凝視しあっているかにみえて、視線の方は交わることなく平行に行き違ってしまうのだ。
どうしてこんなことになってしまうのか。その理由の第一として、世にいわれる小津の映画文法に対する無頓着ということが挙げられよう。切り返しショットとは、視線の対象となっていたものの視点から視線の主体を見返すショットをつなげることことだが、この場合、キャメラは交わる視線の同じ側に置かれるのが普通である。一方の瞳が若干レンズの右脇を見ているなら、次の画面でそれは逆の左方向に相手の瞳をずらせばたちまち解決のつく問題である。しかし、小津は、その編集者だった浜村義康の指摘にもかからわずそれに従うことをしなかった。
これこそ作家性であると言いたい。作家を作家たらしめているもの(それこそ作家性だが)、それを差し引いてしまえばもはやその作家の表現ではなくなるもの、言い換えれば、作家の倫理というもの。あるいは、作家の無意識もここに含まれると思う。上の引用に照らせば、無謀なつなぎを許さないということは、小津安二郎を否定することと同等のことだと言っていい。
「作家=作家の倫理=作家性」という等式はおそらく成り立つ。
作家と作家性の関係は「他者同士」ではない。当然ながらそこに「命懸けの飛躍」などなく、「作家=作家性」という地平がどこまでも広がっている。
蓮實が指摘するように、「○○的なもの」と「作家=作家性」とは関係ない。重なるとすれば、あくまで偶然でしかない。
「○○的なもの」の論理とオタク的自同律(同一律)とは基本的には近いところにあるのではないか。言うまでもなく、共通する最も重要な要素は「批評的視座の欠落」にある。何にしても、コストをかけずに何かを言ったような気になれるという構造は、自己肯定と非常に密接に関わっている。
先に書いた、「表現者が自己肯定志願者の顔色を窺う瞬間」とは、表現者が自ら「○○的なもの」をパスティーシュ(自己模倣)する瞬間だと思う。これに対しては思い切り軽蔑的な視線を投げつけてやればいい。
しかしながら問題は、現前のその表現が「作家の倫理」によるものであるのか、あるいは「パスティーシュ」によるものであるのかという判別にあるかと思う。つまり、受容者のリテラシーという問題だが、おそらくこれについては明確な鍛錬法などなく、自らの経験によって高めていくほかない。
ただなんとなく思うのは、オタク的自同律ではない見方をすること、「固有名」を限りなく透明に近づけていくこと、その先に立ち現れる風景こそ「作家=作家の倫理=作家性」の地平線なのではないか、ということだ。
*1
「無限大の否定による自己肯定」とは、例えばネット右翼の特定アジアへの反応
のようなもの
by sound-and-vision
| 2008-11-29 10:50