2008年 12月 29日
五反田団『すてるたび』 |
ジャック・デリダはあるインタビューで以下のように語ったことがある。
五反田団の演劇は、あまりにも自明すぎて普段は意識しないもの、社会を成立させるためになんとなくうやむやにされていることを、決して大げさではないけれども、表出することがある。
男女四人に椅子四脚。四人は死んでしまった「何か」を捨てるための旅に出る。「何か」はあるときは犬であったり、またあるときは子供であったり、あるいは父親であったりする。四脚の椅子もまた、「椅子」に限らず、あるときは「洞窟」になったりもする。
箍が外れてしまった世界、つまりシニフィエ/シニフィアンが安定していない設定なのだが、演劇とはすべからくそのようなものだろう。
かつてヴァルター・ベンヤミンが『言語一般および人間の言語について』の中で指摘したことは、神においては「在れ」と言ったものが在るのであり、人間においてはモノを「名付ける」ことで神の行為を成就するということである。
一つの「モノ」を別の一つの「モノ」として名付けなおすことが「演劇」と呼ばれるものの基本であり、それはベンヤミンがいう「人間の名付け」に近い。
しかし、前田の場合は、一つの「モノ」に複数の名付けをしており、その意味では「神」と「人間」の中間的な立ち位置であるようにも思える。
前田の立ち位置は普通とは若干違う、とは言いつつも、ここまでの前田の演出は、いままでどおりの通常の評価軸で評価してかまわないだろう。意地の悪い言い方をすれば、「ああ、うまいね」あるいは「はは、面白いね」と一笑に付して、それ以上は問題にせず、そのまま捨ててしまってかまわない。
問題は、前田の目論見が「演劇」の範疇を唐突に、大胆に越えてくる瞬間にある。
物語中盤、箍が外れてしまった世界(舞台)において、それまで「家族」という事柄だけは疑いえぬものとして存在していたにもかかわらず、いきなり弟に対して「あなたどなたですか?」という問いが発せられる。「僕だよ。ほら僕。」と答える弟に、「証拠みたいなのはありますか?」と畳み掛ける。弟は、自分が家族の一員であるという証拠を何一つ呈示することができない。他の三人は「わかったよ。じゃあ家族と認めるよ」となんとなくその場のノリで解決してしまう。
これは何の伏線でもなく、物語とは全く無関係な宙吊られた話。
冒頭のデリダの言葉はここと対応する。
〈演劇的/日常的〉という無意識の境界画定における「日常的」領域は、実はかなりの部分が「演劇的」領域に属するものなのかもしれない。
例えば、ジェリーを追いかけていたトムが、勢いあまって崖を飛び越える。しかし、空中を走り続けるトムはすぐに落下することはなく、ちらっと下を見た瞬間に落下する。
「日常的」領域を生きる私たちは、空中を走るトムと何ら変わらない。のかもしれない。
「自分は何ものにも縛られていない完全に自由な存在である」ことと「自分の同一性を保証するものは何もない」ということ。
『すてるたび』は「何もない」セットであるがゆえに「何でもありうる」。これは捉え方次第で、「何かでありうる」ということは「何でもない」というニヒリズムに反転する。
前田の演出の魅力は、そのことに過剰にペシミスティックにはならず、むしろ逆にオプティミスティックに振る舞う果ての果てに、そのことを垣間見せるところにある。
「私はまだ生まれていない」、というのも、私の命名可能な同一性についての決定が下った瞬間は、私から隠されてしまったからです。
五反田団の演劇は、あまりにも自明すぎて普段は意識しないもの、社会を成立させるためになんとなくうやむやにされていることを、決して大げさではないけれども、表出することがある。
男女四人に椅子四脚。四人は死んでしまった「何か」を捨てるための旅に出る。「何か」はあるときは犬であったり、またあるときは子供であったり、あるいは父親であったりする。四脚の椅子もまた、「椅子」に限らず、あるときは「洞窟」になったりもする。
箍が外れてしまった世界、つまりシニフィエ/シニフィアンが安定していない設定なのだが、演劇とはすべからくそのようなものだろう。
かつてヴァルター・ベンヤミンが『言語一般および人間の言語について』の中で指摘したことは、神においては「在れ」と言ったものが在るのであり、人間においてはモノを「名付ける」ことで神の行為を成就するということである。
一つの「モノ」を別の一つの「モノ」として名付けなおすことが「演劇」と呼ばれるものの基本であり、それはベンヤミンがいう「人間の名付け」に近い。
しかし、前田の場合は、一つの「モノ」に複数の名付けをしており、その意味では「神」と「人間」の中間的な立ち位置であるようにも思える。
前田の立ち位置は普通とは若干違う、とは言いつつも、ここまでの前田の演出は、いままでどおりの通常の評価軸で評価してかまわないだろう。意地の悪い言い方をすれば、「ああ、うまいね」あるいは「はは、面白いね」と一笑に付して、それ以上は問題にせず、そのまま捨ててしまってかまわない。
問題は、前田の目論見が「演劇」の範疇を唐突に、大胆に越えてくる瞬間にある。
物語中盤、箍が外れてしまった世界(舞台)において、それまで「家族」という事柄だけは疑いえぬものとして存在していたにもかかわらず、いきなり弟に対して「あなたどなたですか?」という問いが発せられる。「僕だよ。ほら僕。」と答える弟に、「証拠みたいなのはありますか?」と畳み掛ける。弟は、自分が家族の一員であるという証拠を何一つ呈示することができない。他の三人は「わかったよ。じゃあ家族と認めるよ」となんとなくその場のノリで解決してしまう。
これは何の伏線でもなく、物語とは全く無関係な宙吊られた話。
冒頭のデリダの言葉はここと対応する。
〈演劇的/日常的〉という無意識の境界画定における「日常的」領域は、実はかなりの部分が「演劇的」領域に属するものなのかもしれない。
例えば、ジェリーを追いかけていたトムが、勢いあまって崖を飛び越える。しかし、空中を走り続けるトムはすぐに落下することはなく、ちらっと下を見た瞬間に落下する。
「日常的」領域を生きる私たちは、空中を走るトムと何ら変わらない。のかもしれない。
「自分は何ものにも縛られていない完全に自由な存在である」ことと「自分の同一性を保証するものは何もない」ということ。
『すてるたび』は「何もない」セットであるがゆえに「何でもありうる」。これは捉え方次第で、「何かでありうる」ということは「何でもない」というニヒリズムに反転する。
前田の演出の魅力は、そのことに過剰にペシミスティックにはならず、むしろ逆にオプティミスティックに振る舞う果ての果てに、そのことを垣間見せるところにある。
by sound-and-vision
| 2008-12-29 11:36