2008年 12月 29日
アンドリュー・ワイエス ー創造への道程ー |
まず初めに。
完成し、発表されたものだけが評価の対象であるべきだとするならば、私にとってはその画家の絵は全然魅力的ではないし、少しも評価する気がしない。
Bunkamuraザ・ミュージアムで開催していた『アンドリュー・ワイエスー創造への道程ー』を観た。
ワイエスの絵は対象に極めて忠実に、緻密に描かれており、ただ「美しい」と溜め息をつくことになる。ただし、その溜め息にはいくらかの退屈さも含んでいることは否定できない。
仮に、本展覧会が「完成し、発表された作品」のみを展示するものであったならば、おそらく上記のような感想で終わるしかなかったはずだ。
しかし、実際のところは総点数150点のうち、その多くは「完成し、発表された作品」ではなく、それに至るまでの習作で占められていた。
むしろ、ワイエス本質は、完成に至るまでの習作の中にある。
先述のように、ワイエスの絵は対象に極めて忠実に、緻密に描かれている(ように見える)。つまり、自らの視覚が捉えたものを「リアル」にキャンバスに再現すること、このことが至上命題である(ように思える)。
だから例えば、習作が三枚あり、完成した作品があるとした場合、「習作1→習作2→習作3→完成」という順で「リアル」さが増しているはずである。近代主義的なモデルケースに則れば、そうなって然るべきではないか。
しかし、そのときに欠けているのは、自分の視覚に対する疑いであるだろう。
ゴダールは『JLG/自画像』の中でヴィトゲンシュタインの『確実性の問題』の一つを朗読している。
実は、アンドリュー・ワイエスはこのことに極めて自覚的だと思える。
というのは、ワイエスの場合、「習作1→習作2→習作3→完成」という順番が必ずしも当て嵌まらないからだ。
ワイエスは往々にして、習作3のあたりの段階で水彩を用いる。当然、「リアル」さを追求する際に水彩が効果的とは思えない。実際のところ、ワイエスの水彩も、モノとモノの境界が曖昧に混ざり合い、「リアル」さとはほど遠いものになっている。
しかし、この水彩を何気なく見過ごしてしまっては、ワイエスを矮小化して評価することになるだろう。
水彩の習作にある、(こう言ってよければ)ノイズ成分は、自身の目に対する疑いであるとともに、その風景・土地が持つ記憶やかつて在ったものの痕跡といった、視覚では捉えきれないものであるように思えるのだ。
したがって、水彩を経た上での完成作品の「リアル」さは自身の「視覚」に対してのリアルさでなどでは決してなく、「存在」に対してのリアルさなのである。
「見えるものが全てではない」という深い諦念に基づく、複雑な手続きに内在する、関係性の価値の提示にアンドリュー・ワイエスの魅力を見た。
完成し、発表されたものだけが評価の対象であるべきだとするならば、私にとってはその画家の絵は全然魅力的ではないし、少しも評価する気がしない。
Bunkamuraザ・ミュージアムで開催していた『アンドリュー・ワイエスー創造への道程ー』を観た。
ワイエスの絵は対象に極めて忠実に、緻密に描かれており、ただ「美しい」と溜め息をつくことになる。ただし、その溜め息にはいくらかの退屈さも含んでいることは否定できない。
仮に、本展覧会が「完成し、発表された作品」のみを展示するものであったならば、おそらく上記のような感想で終わるしかなかったはずだ。
しかし、実際のところは総点数150点のうち、その多くは「完成し、発表された作品」ではなく、それに至るまでの習作で占められていた。
むしろ、ワイエス本質は、完成に至るまでの習作の中にある。
先述のように、ワイエスの絵は対象に極めて忠実に、緻密に描かれている(ように見える)。つまり、自らの視覚が捉えたものを「リアル」にキャンバスに再現すること、このことが至上命題である(ように思える)。
だから例えば、習作が三枚あり、完成した作品があるとした場合、「習作1→習作2→習作3→完成」という順で「リアル」さが増しているはずである。近代主義的なモデルケースに則れば、そうなって然るべきではないか。
しかし、そのときに欠けているのは、自分の視覚に対する疑いであるだろう。
ゴダールは『JLG/自画像』の中でヴィトゲンシュタインの『確実性の問題』の一つを朗読している。
”両手はある?”と盲人に聞かれ/両手が見えたら確信できるのか?/なぜ自分の目が確かだと信じうるのか/確かめるべきは むしろ目ではないのか?/両手が見えているかどうか
実は、アンドリュー・ワイエスはこのことに極めて自覚的だと思える。
というのは、ワイエスの場合、「習作1→習作2→習作3→完成」という順番が必ずしも当て嵌まらないからだ。
ワイエスは往々にして、習作3のあたりの段階で水彩を用いる。当然、「リアル」さを追求する際に水彩が効果的とは思えない。実際のところ、ワイエスの水彩も、モノとモノの境界が曖昧に混ざり合い、「リアル」さとはほど遠いものになっている。
しかし、この水彩を何気なく見過ごしてしまっては、ワイエスを矮小化して評価することになるだろう。
水彩の習作にある、(こう言ってよければ)ノイズ成分は、自身の目に対する疑いであるとともに、その風景・土地が持つ記憶やかつて在ったものの痕跡といった、視覚では捉えきれないものであるように思えるのだ。
したがって、水彩を経た上での完成作品の「リアル」さは自身の「視覚」に対してのリアルさでなどでは決してなく、「存在」に対してのリアルさなのである。
「見えるものが全てではない」という深い諦念に基づく、複雑な手続きに内在する、関係性の価値の提示にアンドリュー・ワイエスの魅力を見た。
by sound-and-vision
| 2008-12-29 12:55