2008年 12月 29日
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』に関するメモ |
ネタバレを含みます。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、プレモダンがモダンによって乗り越えられようとする時代を撮っていて、それはアメリカ(に限らず、世界)の精神史と重なっている。
宗教的世界観に基づいた排他的な集団を構成するのがプレモダン社会であり、作品内では「神」や「村的コミュニティ」、またその象徴的人物としてイーライが存在する。
対して、モダン社会は客観的普遍性と数量化・数値化によって集団の排他性を弱体化させる社会であり、作品内では「貨幣」、象徴的人物としてダニエルが存在する。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』における、プレモダンとモダンの対立は、人間の手に負えないほどに空高く燃え上がる火柱(=神)をダイナマイト(=人間)の爆風で鎮火する場面に最も象徴的に現れている。
ポール・トーマス・アンダーソン監督が描くのは、プレモンダンとモダンの対立ではあるが、しかし、これらははっきりと二つの陣営に分かれているわけではないし、実のところゲームの規則すら共有されていないように思える。
いささかテマティックに観るならば、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』では、「失敗すること」と「成功すること」がコインの裏表の関係にあることがわかる。あるときは「失敗すること」が「成功すること」でもあり、またあるときは「成功すること」が「失敗すること」でもある。
例えば以下の場面など
・冒頭の金の発掘の場面で、掘削のための錐が落下してしまう事故(失敗)によって石油が発見される(成功)。しかし、次に錐が落下するとき(失敗)、それは凶器としての側面を見せる(失敗)。
・ダニエルと息子が新たな油田を求めてある土地を訪れた際、走り回る息子が転ぶこと(失敗)と石油を発見すること(成功)は同時に起こる。
・油井が掘り当てた石油(成功)の激しい噴出が息子の聴覚を奪う(失敗)。
因と果が単純に一つの関係を結んでいない世界、つまり、ゲームの規則が共有されていない世界。しかし、そのゲームから降りることができない、という構造は実は「現代」=ポストモダン社会に特徴的なものではないか。
ポール・トーマス・アンダーソン監督はプレモダンとモダンの対立を描きながら、裏テーマ的にポストモダンを設定しているように思える。
にも関わらず、というべきか、やはりと言うべきか、物語はこのようには進まず、新たなプレモダンとモダンの対立を描くことになる。
「貨幣」(=モダン)とはあらゆるものを交換価値に相対化できるものなのだが、貨幣の象徴であったダニエル自身がプレモダンの象徴へと転落する。彼は、実は拾った子供である息子を、本当の息子とすることができない。また「第三の啓示」という新興宗教の洗礼を一旦は受け入れるものの、貨幣的な価値観の下に相対化することはできず、結局はイーライを殺すことになる。
この展開は、ある意味では驚きであったし、言い方を変えれば、拍子抜けでもあったのだが、安直な二元論に陥らないところがほらポモでしょ、と半ば強引に押し切られたような、そんな印象が残った。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、プレモダンがモダンによって乗り越えられようとする時代を撮っていて、それはアメリカ(に限らず、世界)の精神史と重なっている。
宗教的世界観に基づいた排他的な集団を構成するのがプレモダン社会であり、作品内では「神」や「村的コミュニティ」、またその象徴的人物としてイーライが存在する。
対して、モダン社会は客観的普遍性と数量化・数値化によって集団の排他性を弱体化させる社会であり、作品内では「貨幣」、象徴的人物としてダニエルが存在する。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』における、プレモダンとモダンの対立は、人間の手に負えないほどに空高く燃え上がる火柱(=神)をダイナマイト(=人間)の爆風で鎮火する場面に最も象徴的に現れている。
ポール・トーマス・アンダーソン監督が描くのは、プレモンダンとモダンの対立ではあるが、しかし、これらははっきりと二つの陣営に分かれているわけではないし、実のところゲームの規則すら共有されていないように思える。
いささかテマティックに観るならば、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』では、「失敗すること」と「成功すること」がコインの裏表の関係にあることがわかる。あるときは「失敗すること」が「成功すること」でもあり、またあるときは「成功すること」が「失敗すること」でもある。
例えば以下の場面など
・冒頭の金の発掘の場面で、掘削のための錐が落下してしまう事故(失敗)によって石油が発見される(成功)。しかし、次に錐が落下するとき(失敗)、それは凶器としての側面を見せる(失敗)。
・ダニエルと息子が新たな油田を求めてある土地を訪れた際、走り回る息子が転ぶこと(失敗)と石油を発見すること(成功)は同時に起こる。
・油井が掘り当てた石油(成功)の激しい噴出が息子の聴覚を奪う(失敗)。
因と果が単純に一つの関係を結んでいない世界、つまり、ゲームの規則が共有されていない世界。しかし、そのゲームから降りることができない、という構造は実は「現代」=ポストモダン社会に特徴的なものではないか。
ポール・トーマス・アンダーソン監督はプレモダンとモダンの対立を描きながら、裏テーマ的にポストモダンを設定しているように思える。
にも関わらず、というべきか、やはりと言うべきか、物語はこのようには進まず、新たなプレモダンとモダンの対立を描くことになる。
「貨幣」(=モダン)とはあらゆるものを交換価値に相対化できるものなのだが、貨幣の象徴であったダニエル自身がプレモダンの象徴へと転落する。彼は、実は拾った子供である息子を、本当の息子とすることができない。また「第三の啓示」という新興宗教の洗礼を一旦は受け入れるものの、貨幣的な価値観の下に相対化することはできず、結局はイーライを殺すことになる。
この展開は、ある意味では驚きであったし、言い方を変えれば、拍子抜けでもあったのだが、安直な二元論に陥らないところがほらポモでしょ、と半ば強引に押し切られたような、そんな印象が残った。
by sound-and-vision
| 2008-12-29 14:39