選考委員/池澤夏樹・石原慎太郎・黒井千次・高樹のぶ子・宮本輝・村上龍・山田詠美・小川洋子・川上弘美
以下、ネタバレを含みます。
【鹿島田真希『女の庭』】
極めて周到、かつ、さりげなく構築されたメタフィクションとして読んだ。
金井美恵子を経験し、チェルフィッチュを経験した後に産み出される語りは必然的にこのようになるのだろう。
金井美恵子的な経験とは、例えば短編『窓』における以下のような一節
そうした記述のされ方に、彼(引用者註-小説に書かれる人物)は不満を感じることがないだろうかとわたしは思った。自分は別の人間だと、彼は言わないだろうか。彼は、もしそうすることが可能だとしたら、わたしに向かって穏やかな抗議をするかもしれない。
また、チェルフィッチュ的な経験とは、人物Aが人物Bに成り代わって語るような、語り手の主体の位相が次々に変化していくもの。
例えば人物Aによる以下のような台詞。
このときBさんは言ったほうがいいかなと思ったんですけど、まぁ面倒だしいいやと思って黙ってたんですね。
『女の庭』は、同じマンションに住む母親達との井戸端会議に辟易する子なし主婦の「私」が、ある日となりに越してきた外国人ナオミの生活を想像し、深く共感する話だ。
想像であるからには、基本的に「~だろう」や「~かもしれない」といった文末表現が多用されるはずなのだが、『女の庭』では「~だ」や「だって~だから」や「~はずだ」といった断定調の文末がしばしば使われている。
一般的に「小説」というものを、作者が、登場人物である「私」(三人称でも同じことだが)のことを想像して書いたものだとするならば、『女の庭』における「私」がナオミを想像して断定調で語ることは、構造としては違いがない。
鹿島田真希はそのことに非常に自覚的な記述方法をとりながら、物語として普通に読める、という高度な技術を駆使しているように感じた。
【墨谷渉『潰玉』】
今回の6作の中で最も衝撃的な作品だった。
法律事務所で働き、社会的にも安定した地位にある主人公青木は、ある日、街で出会った女性に股間を蹴り上げられる。青木はその快感に目覚め、それを追い求める。
参考文献にマルキ・ド・サドの『ソドムの百二十日』が挙げられているが、実はジル・ドゥルーズの『サドとマゾッホ』からの影響が大きいのではないかと思う。
というのは、おそらく意識的に、ドゥルーズが唱えたいくつかの概念が『潰玉』には頻繁に用いられているからだ。
その一つが「生成」というものだが、これは「新たなものが生み出されていく流れ」のことで、この「流れ」をそのまま捉えようとするのであれば、「流れ」が「流れ」ではない何かから構成されている、という理論を持ち込むことはできない。「流れ」とは、分割できずに絡み合う異質的な連続性のことで、「可能性」ではなく「潜在性」を持っている。「可能性」とは、未来におけるあり形について複数的に数え上げることができるものであり、「潜在性」とは、そのようにあらかじめ可能なあり形を列挙できるものではない。
『潰玉』に即して言えば、「急所を蹴り上げられる」という行為自体が「生成」であり、「流れ」すなわち「潜在性」のなかにとどまることなのだと思う。
もう一つ、「共立不可能な世界」つまりパラドックスに満ちた世界というものを挙げることができると思う。
ドゥルーズが『意味の論理学』の最初の方で、「不思議の国のアリス」について「アリスが大きくなることと、アリスが小さくなることは同時に起こる」ということを指摘している。
『潰玉』でいうならば、急所を蹴られた青木が激しい痛み(本性)の中にありながら、蹴りに対する客観的な分析(理性)を働かせる場面。それは一度だけではなく、暴行の間中いつも行われる。
また、最後に亜佐美が睾丸を握り潰そうとする場面も、それに関係するものとして考えられる。
(前略)打ち上げられただけであんな素敵な表情が見られるんだから割れたときはいったいどんな表情を見せてくれるのかね、割れたときの感触も楽しみ、いやそれが一番楽しみかも、でも待てよ割れるときは表情も割れるところも両方じっくり観察したいけど、同時に両方はじっくり見られないな、割れる直前から割れた瞬間、割れた直後、(以下略)
あまりに変態的な『潰玉』だが、アクチュアルに響くことろがあるとすれば、先ほども言った「痛みと客観視」ということだろうか。
『潰玉』に関しては、むしろ青木が自発的に行っていることではあるが、現代においては「痛み」に埋没できる環境は稀で、「痛み」を客観視することが求められる。
以前のLifeか何かで鈴木謙介が、人の「痛み」に対して「それはお前の実存で、社会学的にはこのあたりのことに過ぎないのだ」と言い捨てる宮台真司のことを批判していたのを思い出した。
そういえば、年末の放送でも、「芸人は、自分の一発芸が一年限りで廃れることも織り込み済みでなければならない時代」という話が出ていたが、その客観的な視点も同じようなものだ。
【津村記久子『ポトスライムの舟』】
前々回、前回に続き、3度目の候補。本家
メッタ斬りでは豊崎・大森両氏ともに津村記久子受賞確実!ということで盛り上がっているようですが、どうなんでしょうか。
前回、前々回に負けず劣らず、今回のものも面白いし、野間新人賞に相応しい実力はあると思いますが、であれば、前回に獲っていてもよかったのでは??と思います。それこそ、楊逸と同時授賞という形でも。
この選考委員体制のうちはちょっと厳しいような気がしないでもないです。
ただ、作品自体は本当に面白い。
最近ではすっかりノスタルジックな趣きさえ醸し出すものになってしまった「セカイ系」だが、その特徴が、極私的な生活や男女関係が世界の存亡を直截に左右してしまうことで、その極私的な生活がある種特別で崇高なものになってしまうことだとすれば、『ポトスライムの舟』は「逆セカイ系」とも言い表せるのではないかと思う。「極私的な生活」が「世界」の高みまで引き上げられる「セカイ系」に対し、「世界」が「極私的な生活」まで引きづり降ろされる「逆セカイ系」。
途中、自転車のブレーキが壊れるあたりで、なぜか(おそらく文体からだろうが)古井由吉のことを思い出した。そう思いながら読み進むと、後半に入って「咳」のことが執拗に書かれていて、まさに古井由吉の『影』じゃないか!と一人合点した。
【田中慎弥『神様のいない日本シリーズ』】
サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を大胆に引用した作品だが、ゴドーの不在を父の不在と直結する構図はやや安易に思う。だが、語りの構造としては、語り手の父が不在の祖父(自分の父)の話を息子に聞かせているのだが、父と息子の間は襖で仕切られており、その襖の向こうに本当に息子がいるのかは記述されていない。もしかすると、息子はいないかもしれない。父は「いなかった人」の話を「いない人」に向かって話聞かせているのかもしれない。だから、そもそも語り自体がゴドー的な圏内にあるのであって、そこに面白さを感じた。
また、父が徹底して「プレーヤー」ではなく「観客」であり、つまり「見る人」であり「待つ人」であり、それは「ウラジーミル」であり「エストラゴン」であること。
『ゴドーを待ちながら』は確かに名作だけれども、それに頼るのではなく、あくまで自分の作品と有機的に絡ませる作者の力量は評価できる。
【吉原清隆『不正な処理』】
作品としては特に優れているとは思わないし、そんなに面白いとも思わなかった。
ただ、物語の構成が、前回の芥川賞受賞作の楊逸『時が滲む朝』と驚くほど同じなのは一体どういうことなのか気になる。
【山崎ナオコーラ『手』】
3度目の候補だが、相変わらず。内容も形式にも魅力的な点が発見できなかった。
タイトルの時点でそうなのだが、作品も会話が多く、昨年観た劇団ハイバイの『て』のことがずっと頭をよぎっていた。