2009年 08月 04日
『手塚と神村のライン京急』のこと |
8月4日 晴れ
『手塚と神村のライン京急』のこと
手塚夏子と神村恵が互いの作品を交換して、相手の方法論で踊ってみるという実験企画『手塚の神村と神村の手塚』に影響を受けて出来たのが『手塚と神村のライン京急』ということのようだ。『手塚の神村と神村の手塚』を見逃してしまったのが何とも悔やまれる。
舞台上には大谷能生と山懸太一の二人がいる。スピーカーから録音された女性(たぶん手塚と神村)の声が流れ出す。「下あごを意識する」とか「相手の裏をとる」とか「指のあいだに仁丹がはさまる」などといったものだ。舞台上の二人はその声の通りに身体を動かそうとしているようだ。観客は、スピーカーからの声はダンサーに対しての「指示」として機能しているのだと諒解する。
ダンスは身体の動きである。だから、その伝承や指導においては、先生から生徒への伝達は「先生の身体をなぞる」というのが一般的で重要だというのは言うまでもないが、その一方で「○○を意識して」や「○○のように」といった「言語による指示」もまたそれに劣らず重要であることは想像に難くない。断片化しテクスト化されたダンス。モダンダンスもコンテンポラリー・ダンスも古代の民族のダンスもその範疇を逸脱しない。おそらくはあまねく存在するダンス、ダンス一般に妥当する。
『手塚と神村のライン京急』の面白さは、この伝承/指導自体の作品化と、言語化された指示に身体を合わせていく際のずれにあるように思われる。(*1)
しかし、それだけではない。ダンサーに対する「指示」だと思われていた声に、「指示」とは微妙に異なるような、「指示」として機能しないようなものが混ざり込んでくる。「仁丹が赤くなる」や「背骨が梅干しになる」といった声、それは果たして「指示」なのだろうか。むしろ、声の方がダンサーの身体から導き出されたものかもしれない。その可能性を否定(あるいは肯定)する要素は作品からは一切推測することはできない。
「主/従」だと思われていた「声/身体」の関係はどちらが主でどちらが従なのかを曖昧にしたまま空間に投げ出されていて、もしかするとそれはダンス一般に備わる本質的なものかもしれなかった。
*1 エリック・ロメール監督の『我が至上の愛 〜アストレとセラドン〜』も同じように、テクストに過剰に近づけていくことで起こる破綻が魅力の一つである。
『手塚と神村のライン京急』のこと
手塚夏子と神村恵が互いの作品を交換して、相手の方法論で踊ってみるという実験企画『手塚の神村と神村の手塚』に影響を受けて出来たのが『手塚と神村のライン京急』ということのようだ。『手塚の神村と神村の手塚』を見逃してしまったのが何とも悔やまれる。
舞台上には大谷能生と山懸太一の二人がいる。スピーカーから録音された女性(たぶん手塚と神村)の声が流れ出す。「下あごを意識する」とか「相手の裏をとる」とか「指のあいだに仁丹がはさまる」などといったものだ。舞台上の二人はその声の通りに身体を動かそうとしているようだ。観客は、スピーカーからの声はダンサーに対しての「指示」として機能しているのだと諒解する。
ダンスは身体の動きである。だから、その伝承や指導においては、先生から生徒への伝達は「先生の身体をなぞる」というのが一般的で重要だというのは言うまでもないが、その一方で「○○を意識して」や「○○のように」といった「言語による指示」もまたそれに劣らず重要であることは想像に難くない。断片化しテクスト化されたダンス。モダンダンスもコンテンポラリー・ダンスも古代の民族のダンスもその範疇を逸脱しない。おそらくはあまねく存在するダンス、ダンス一般に妥当する。
『手塚と神村のライン京急』の面白さは、この伝承/指導自体の作品化と、言語化された指示に身体を合わせていく際のずれにあるように思われる。(*1)
しかし、それだけではない。ダンサーに対する「指示」だと思われていた声に、「指示」とは微妙に異なるような、「指示」として機能しないようなものが混ざり込んでくる。「仁丹が赤くなる」や「背骨が梅干しになる」といった声、それは果たして「指示」なのだろうか。むしろ、声の方がダンサーの身体から導き出されたものかもしれない。その可能性を否定(あるいは肯定)する要素は作品からは一切推測することはできない。
「主/従」だと思われていた「声/身体」の関係はどちらが主でどちらが従なのかを曖昧にしたまま空間に投げ出されていて、もしかするとそれはダンス一般に備わる本質的なものかもしれなかった。
*1 エリック・ロメール監督の『我が至上の愛 〜アストレとセラドン〜』も同じように、テクストに過剰に近づけていくことで起こる破綻が魅力の一つである。
by sound-and-vision
| 2009-08-04 12:50