2008年 01月 14日
批評の可能性、あるいは米澤穂信について |
昨年の後半から、佐々木敦の呼びかけによるVECTORSや同じく佐々木敦編集のエクス・ポを読んだこともあって、「批評」というものについて考え続けている。批評とは何なのか。批評は可能なのか。可能であるとすればどのような形で可能なのか。思案しているのは概ねそのようなことだ。先日、昔からの友人や某私塾でご一緒させていただいている方達とそのようなことについて話しをする機会があり、自分の中でまとまりがついてきた感触を得ている。
いま思うと、大友良英を中心とするオフサイト周辺の音楽家に関心を持っていた3年前くらいにも同じようなことを考えていたのだけれど、当時は決定的な結論は見出せぬままなんとなく有耶無耶になってしまっていた。多分iPodを買ったのもその頃で、CDに録音された音楽とMP3に圧縮された音楽は別物だという論旨のことを確か大友良英とジム・オルークが対談の中で語っていて、それについても納得できる部分と、どこか反発を覚える部分があったのを思い出した。これも結論を出すことは先送りしたままになっていた。いわゆる音響系の音楽への興味が薄れていったのもまた同じような時期だったような気がしている。
「エクス・ポ」の佐々木敦×東浩紀×渋谷慶一郎の鼎談の中でも語られているように、例えば同じ音楽を聴いたとしても、再生装置や空間など様々な要素のために、人によって違うように聴こえてしまう。極論すれば、自分と他人は決して同じ音を聴くことはできないということだ。これはなにも音楽に限らず全ての事柄においてそういうことになる。(先述の某私塾の方が「ある人を『知っている』とはどういうことなのか」ということをずっと考えていると仰っていて、このことと本質的には同じ問題ではないかと思った。)差異化の極限では、音楽なり芸術は成り立たない。当然ながら、批評も例外ではない。だから、そのような差異をいったん括弧に入れたところとの間際であれこれ試行するしかないと佐々木敦は言っている。実は鼎談の最初の方で、東浩紀が、作品を鑑賞するときにどうしても連想の層が入り込んでしまうということを言っていて、先述の佐々木敦の意見はこれと併せて考える必要があると思う。つまるところ、たとえあらゆる差異を括弧に入れて、皆が同じ作品を見ていると前提してみたところで、人間の脳内はブラックボックスであって、皆それぞれが違う感想を持つだろう。脳内のブラックボックスは、その人の立場、生活環境、国籍、文化的体験など、大きな意味でその人の「歴史」に規定されて成り立つものである。批評することで人に同じような感想を抱かせることの不可能性もここで露見する。批評にできることとは「こう感じるべきだ」と啓蒙することではなく(そもそも不可能)、「こういう考え方がある」ということを提示して脳内ブラックボックスに影響を与えることだ。つまり、脳内ブラックボックスを形成する「歴史」として受容されてこそ意味を持つ。だからこそ、批評とはまぎれも無く「作品」と同列でなければならない。批評と感想の違いがここにあって、ただの感想は「歴史」にはならない。日常のとりとめのないおしゃべりが容易には「歴史」として刻まれないように。批評家が「これは批評である」とはじめから宣言するのも不可能である。最初に存在するのは「感想」であって、それが人々の「歴史」に刻まれてはじめて「批評」となる。
「犬はどこだ」や「ボトルネック」など、なかなかいい作品を書いている米澤穂信の「さよなら妖精」を読んでいたく感動してしまった。批評について以上のように私が考えていたことが、全くそのままと言っていいほどに作品に落とし込まれていると読めてしまったからだ。ユーゴスラビアからやってきた少女マーヤとふいに知り合いになってしまい・・・という設定で物語は進んでいくのだが、もう中盤からは「マーヤ」を「批評」と読み替えて読んでしまった。最後まで全てが腹に落ちた。自分がしばらく考えていたことが、まさにいま読んでいる小説の中で起こっているということが初めての経験であり、興奮する体験だった。米澤穂信という作家は本当に器用な作家で、物語はいくつものレイヤ-によって構成されていて、もちろんエンターテインメントとしても読めるし、アレゴリーとしても読むことが可能な仕組みになっている。だから、もっと以前に「さよなら妖精」を読んでいてもそれなりに高い評価をしているとは思うけれども、この奇跡的なタイミングで読んでしまったことで、米澤穂信という作家がどうしようもなく特別な存在となってしまっている。
いま思うと、大友良英を中心とするオフサイト周辺の音楽家に関心を持っていた3年前くらいにも同じようなことを考えていたのだけれど、当時は決定的な結論は見出せぬままなんとなく有耶無耶になってしまっていた。多分iPodを買ったのもその頃で、CDに録音された音楽とMP3に圧縮された音楽は別物だという論旨のことを確か大友良英とジム・オルークが対談の中で語っていて、それについても納得できる部分と、どこか反発を覚える部分があったのを思い出した。これも結論を出すことは先送りしたままになっていた。いわゆる音響系の音楽への興味が薄れていったのもまた同じような時期だったような気がしている。
「エクス・ポ」の佐々木敦×東浩紀×渋谷慶一郎の鼎談の中でも語られているように、例えば同じ音楽を聴いたとしても、再生装置や空間など様々な要素のために、人によって違うように聴こえてしまう。極論すれば、自分と他人は決して同じ音を聴くことはできないということだ。これはなにも音楽に限らず全ての事柄においてそういうことになる。(先述の某私塾の方が「ある人を『知っている』とはどういうことなのか」ということをずっと考えていると仰っていて、このことと本質的には同じ問題ではないかと思った。)差異化の極限では、音楽なり芸術は成り立たない。当然ながら、批評も例外ではない。だから、そのような差異をいったん括弧に入れたところとの間際であれこれ試行するしかないと佐々木敦は言っている。実は鼎談の最初の方で、東浩紀が、作品を鑑賞するときにどうしても連想の層が入り込んでしまうということを言っていて、先述の佐々木敦の意見はこれと併せて考える必要があると思う。つまるところ、たとえあらゆる差異を括弧に入れて、皆が同じ作品を見ていると前提してみたところで、人間の脳内はブラックボックスであって、皆それぞれが違う感想を持つだろう。脳内のブラックボックスは、その人の立場、生活環境、国籍、文化的体験など、大きな意味でその人の「歴史」に規定されて成り立つものである。批評することで人に同じような感想を抱かせることの不可能性もここで露見する。批評にできることとは「こう感じるべきだ」と啓蒙することではなく(そもそも不可能)、「こういう考え方がある」ということを提示して脳内ブラックボックスに影響を与えることだ。つまり、脳内ブラックボックスを形成する「歴史」として受容されてこそ意味を持つ。だからこそ、批評とはまぎれも無く「作品」と同列でなければならない。批評と感想の違いがここにあって、ただの感想は「歴史」にはならない。日常のとりとめのないおしゃべりが容易には「歴史」として刻まれないように。批評家が「これは批評である」とはじめから宣言するのも不可能である。最初に存在するのは「感想」であって、それが人々の「歴史」に刻まれてはじめて「批評」となる。
「犬はどこだ」や「ボトルネック」など、なかなかいい作品を書いている米澤穂信の「さよなら妖精」を読んでいたく感動してしまった。批評について以上のように私が考えていたことが、全くそのままと言っていいほどに作品に落とし込まれていると読めてしまったからだ。ユーゴスラビアからやってきた少女マーヤとふいに知り合いになってしまい・・・という設定で物語は進んでいくのだが、もう中盤からは「マーヤ」を「批評」と読み替えて読んでしまった。最後まで全てが腹に落ちた。自分がしばらく考えていたことが、まさにいま読んでいる小説の中で起こっているということが初めての経験であり、興奮する体験だった。米澤穂信という作家は本当に器用な作家で、物語はいくつものレイヤ-によって構成されていて、もちろんエンターテインメントとしても読めるし、アレゴリーとしても読むことが可能な仕組みになっている。だから、もっと以前に「さよなら妖精」を読んでいてもそれなりに高い評価をしているとは思うけれども、この奇跡的なタイミングで読んでしまったことで、米澤穂信という作家がどうしようもなく特別な存在となってしまっている。
by sound-and-vision
| 2008-01-14 19:52