2008年 03月 16日
『フリータイム』と『ユリイカ』とムツゴロウ |
チェルフィッチュ『フリータイム』を観た。
ある人の思考を別の誰かが代弁する、1+1+1=3人称とでも言うべき、いわゆるチェルフィッチュ的文体がふんだんに使われていた。Aさんの思考をBさんが語り、またCさんがAさんの思考を語り、DさんがAさんの思考を語る。一見、同じセリフが何度も繰り返されるように(まさに「日記をつける女」が円を描き続けていたように)思える。しかし、ここで重要なのは、「繰り返し=反復」そのものではなく、むしろ、「反復」の内に生じる(潜在する?)「ズレ=差異」の方だったのだ。
ところで、いまの一文は佐々木敦『テクノイズ・マテリアリズム』のp35から引用した。ミニマル・ミュージックの祖の一人であるスティーブ・ライヒが自らの手法を説明した「Gradual Phase Shifting Process」(漸次的位相変換プロセス)をさらに説明した一文だ。この指摘は『フリータイム』をも射程に捉えている。『フリータイム』で繰り返されているセリフは微妙に違うがゆえに、「ほとんど同じ」であることがかえって「違う」ということを浮き彫りにしてしまう。円を描くことが日記として成立するということは、逆説的にそれぞれの円が違うことを示している。
毎日同じ円ならば、それは日記として成立しない。
結局のところ、人は同じものを見ているようで、同じようには見れてはいない。
というのは、客席の設置方法からも指摘することができる。『フリータイム』はステージを挟み込むようにして客席が設置されている。一般的な映画や演劇の場合、スクリーン(ステージ)と客席は向き合うようになっていて、当然席によって角度が違ったりするのだが、少なくとも視線のベクトルとしてはほぼ同じ方向だと言える。だから、「同じものを観ている」という共同幻想が生まれうる。ステージを挟み込んだ場合、「もう一つの視線のベクトル」が意識される。逆の客席からはどう観えたのかという思いが生まれてしまうことで、「同じものを観ている」という感覚は希薄になる。
『フリータイム』には休憩(=フリータイム)が導入される。さして長時間の作品でもないにも関わらず、半ば暴力的に15分の休憩が与えられる。あの15分を文字通り「休憩」として有効に使えた人がどれだけいたのだろうか。友人と見に行った私は、終わりを迎えていない作品のことを話したいと思わなかったし、かといって、作品以外のことを話すのも何だか変な気がした。
休憩によって物語を強制的に相対化するやり方はロジカルには安易とはいえ、フィジカルな訴求力を持つ点でやはり強い。
友人Wに「BRUTUS」の犬特集でのムツゴロウさんの発言が秀逸だと教わったので書店に行ったのだけれど、すでに新月号が出ていて残念ながら読めなかった。友人Wによると、狭い部屋で犬を飼うことについてムツゴロウさんは、「犬にストレスになるからという理由で飼わないのは間違っている。多少のストレスは生きているという実感に必須のものである」と言い、「狭い部屋を犬が嫌がるからという理由で飼わないことも間違っている。嫌だと思っているのはあなた自身なのです」と言っているそうだ。
チェルフィッチュに引きつけて言うなら、ムツゴロウさんの発言は、ある人や物についてイメージすることが不可避的に誤解を孕んでしまうことを「だからいいのだ」と肯定することを許す。確かに、コミュニケーションの楽しさを担保する要素として、この「誤解に起因する意外性」は重要だと思う。
このブログも同様で、間違い、勘違い、思い違い、つまりノイズを多く孕んでいる。それを理由に書くことを止めるよりは、「だからいいのだ」と呟きながらひとまず開き直ることにしたい。
友人Wと、青山真治『ユリイカ』のラストで、それまでセピアだった映像がカラーになることについて話した。自分の考えが少し纏まってきたので書いておきたいと思う。
『ユリイカ』は、バスジャックによって心に傷を負った者たちの再生を描いた物語で、セピアからカラーになるのはちょうど再生を果たしたところからだ。私自身はこのカラーを肯定的に捉えている。Wを含めて、一般的にこのカラーに対しての批判は「安直だ」という論旨で展開されている。映画というものは開かれているものだから、あらゆる批判を許容するのだけれども、『ユリイカ』のカラーにおいては「安直だ」という批判だけは全く効力を持ち得ていないと思う。それは、映画の外の青山真治の発言を引かずとも、『ユリイカ』のセピア部を見れば、説明的なカットや表現を周到に避けている姿勢は認められるはずで、その意思を持った監督が「安直だ」という反応があることを予想しつつ、「あえて」カラーを使っているということを考えなければいけない。仮に批判するとしても、「あえてカラー」であることを前提としたとこからでなければならない。
現代アートとそれ以前の美術とを決定的に分ける点は、作品の価値が作品に内在するか否かということだと思う。価値の決定権の多くを「見る側」に委ねたのが現代アートなのだと理解している。だからそこでは、作品に価値付けをする「見る側」もまた品定めの対象となる。デュシャンの『泉』を「以前の美術」の方法論で見てしまっては全く意味が無い。
『ユリイカ』のカラーは現代アートの方法論で見るべきで、「カラー=再生」だから説明的だと捉えてしまっては本質を取り逃がす。「安直だ」という批判は、そのままの形で批判者自身に撥ね返る。ムツゴロウさんの二つ目の指摘はここにも当てはまる。
私は、あのカラーを「映画であることの限界」と「それでもなおそこから始めなければならない」という青山真治の決意表明だと捉えている。セピアからカラーになることで、いま目の前にある物語が映画にしか過ぎないことを表明している。つまり、『ユリイカ』はメタ映画なのだ。フェリーニ『8 1/2』やトリュフォー『アメリカの夜』のように、メタ映画は概して、メタ映画であることによって物語を規定してしまう。しかし、『ユリイカ』においてはメタ映画であることを表明しつつ、物語を規定しないという方法論が採られており、これこそ青山真治の映画に対する姿勢なのだと感じている。
by sound-and-vision
| 2008-03-16 22:33