断っておくと、今回のCASTAYA projectは8/10-11と8/24-25で全4回あって、聞くところによると毎回全然異なるパフォーマンスだったようです。ちなみに僕が観たのはそのうちの3日目だけです。だから、project全体を観たわけではない。全4回のうちの1回しか観ていないからproject全体のダイナミクスについては捉えられていないでしょう。それは重々承知していている。だからこそ前回のエントリでも「CASTAYA projectの3日目」と限定して書きました。ただ、全体としてのダイナミクスの一方で個々の作品の自律性/自立性があるのも確かだと思っています。でなければ、個々の作品は全体に従属する「部分」でしかなくなってしまう。それがもしかして建前でしかないとしても、作品の自律性/自立性は愚直に信じられるべきではないですか?
とりわけ今回のCASTAYA projectは全ステージ通し券のほかに一回毎のチケットも販売していました。個々の作品が、それ一つだけでも成立すると作り手が考えているからこそそうなのでしょう(とはいえ、経済的な事情もあるのは確かだと思います。ただし、仮にそれが全てであればこれほど観客と作品を馬鹿にした話もないでしょう)。通し券だけしか販売していなくて、たまたま3日目だけを観て批判したとしたらそれはフェアじゃないと思います。ところが今回はそうではない。
料金について作り手と観客の契約がすめば、そこから先は離れた関係であっていいと思っています。作り手と観客の共犯関係が必要なほど演劇界は廃れていないと思うし。演劇でも何でもいいですけど、仮にそういう共犯関係を少しでも求められることがあるとしたら僕は真っ先に降ります。(いま想定しているのは「エンタの神様」のような現在のお笑いの状況です。)だから賞賛であれ批判であれ、観客は好きに物申す自由はあるはずです。
作り手に直接言おうがブログで言おうが、それも自由です。「直接言う>ブログで言う」っていうのも実際微妙だと思います。たとえば「顔が見えない人」の文章を読んで、作り手がそれを「観客一般」として内面化したとしたら、これは極めて限定的な意味においですが、直接言うことより実践的だともとれますよね。これは良くも悪くもです。そしてそれが作り手を悩ませて、次の作品に影響を与えたとすれば、それは批評と創作の関係としては最も幸福な形だと思います。
個人的な意見としては、作品について観客はもっともっと発言していいと思う。否定的な意見も含めてです。ただしそれは実学主義的即断型の「消費者」のクレームではなく、より広いパースペクティブをもった「読者」としての立場でです。そこさえはずさなければ、作り手に届くとか届かないとかは実際は関係ない。届いたから意味があるとか届かないから意味がないとかいう話ではない。話は単純です。たとえば「CASTAYA」で検索したときに毀誉褒貶に富んだ情報がババーっと出る環境のほうがいいわけですよ。作品に対して人それぞれいろんな感じ方があるのは当然なんだからそれを反映している環境のほうが。ある作品について検索しても、少数の絶賛しかヒットしないなんて寂しいし、なんかキモい。だから、自分が書いた文章が「情報」や「つぶやき」に還元されていくことに僕は全く抵抗はないし、むしろそれでいいとすら思っています。結果的に雑多な意見や解釈の集まりが作品の多様性に寄与することになるのだろうと思っています。
「なんで作品について解釈とか批評とか書くの」っていうのは今でもよく言われます。その背景にあるのは「作品はただ感じればいいんじゃね?」とか「面白いことは面白いってことでいいでしょ」ということで、なんとなく言葉に対するアレルギーのようにも思えます(現在の饒舌ブーム(?)は無限の発言媒体としてのネット空間の登場によって加速したのだろうし、それに比例して一方では批評へのアレルギーも増加しているのだと思います。結局はリテラシーの問題だとは思いますが。まぁそれは別の話)。僕としてはむしろ、作品に対して「すごい」とか「かっこいい」とか「面白い」としか表現できない(しない)周りの風潮にはっきりと不満があったし、「どこが」「なぜ」面白いのということを明らかにしたい欲求のほうが大きかった。だから、考えることの延長としての「書く」という行為なのです。
そしてもう一つ、言葉によって作品が矮小化するという、否定派にとってはかなり支配的な考え方。この点については佐々木敦『「批評」とは何か?』から引用します。
その時に、踊ってて楽しいんだから理屈はいいや、ってことはある。でも事後的にでいいから、自分は何故踊り出したくなったんだろう、ってことを自分なりに省みて考えてみることで、むしろその感動を深めていく、自分がその音から受けたエフェクトを、より繊細に、あるいは倍加していくような作用が僕はあると思う。言葉で考えたからその体験が不自由なものに矮小化されるっていう考え方の方がおかしくて、それはその人が持っている言葉が貧困であるということに過ぎないと思う。
(『「批評」とは何か?』p70)
これは実際かなり励ましになったし、僕が佐々木敦という書き手を基本的な部分で肯定する理由です。
それでもやはり、作品を「方法論」や「説話論」、「主題論」に還元していくことは矮小化という風に見えるかもしれないけれど、たとえば蓮實重彦の仕事を見れば、右から左へと構造を取り出して終わり。ではない。蓮實は作品を細部にわたって見渡すという途方もない作業の果てに批評を行っているのであって、それは作品に対する真摯な態度の一つです。当然ながら、誰しもが蓮實重彦のように構造を見出すことができるわけではない。だからと言って、それはお前に作品に対しての真摯さが足りないからだ、といわれたとするとあんまりです。それは単純に力量の問題です。構造というのは思っているほど簡単には見出せないもので、それは対象に深く向き合ってはじめて見えてくるものです。けれども、そうして見出された構造ですら、読み手によって次から次へと読み捨てられていくとしたら、それはある意味で読み手の問題です。それは読み手自身の読みが、対象と深く対峙していないということの証左なのではないでしょうか。
構造を見出す批評がつまらないからといって作品の外部を導入するやり方を否定するつもりはありませんが、外部を導入すればするだけ特権性が増す、つまり説得力がなくなるように思います。批評とはすべからく作品の内部に留まるべきものです。構造を見出す批評がつまらないとしたら、あくまで批評の範疇で別のやり方を模索するしかない。そんな方法がこの先発明される保障はありませんが、そこにしか可能性がないことだけは確かではないでしょうか。
ある一つの作品に対峙したときに「わかる」とか「面白い」とかいう体験が多ければ、そのほうが幸せです。だけど、その「わかる」や「面白い」が、現場に介入して作り手と話したことから得られたものだとしたら、それは事前に与えられた「情報」です。それが悪いわけではない。それによって作品が豊かに感じられれば喜ばしいことです。また逆に、なまじ「情報」を知っているからこそ誤解が生まれてしまう悲劇もある。言うまでもないことですが、どこからが「情報」でどこからがそうじゃないなんてことを線引きするのは無理だし、無意味です。その作品に対峙する前に個人個人が固有の歴史を前提とするしかない。ある意味でそれはすべて「情報」だと言ってしまってもいい。だから、作品について何か言う人がどれほど作品の内部に留まっていようと、「それはお前がそう思ったってだけじゃん」という反論は避けようがない。作品の「外部」というものがどうしようもなく決定不可能なので。だからと言って、開き直っていいものか。「情報」を前提として語っていいものか。やはりそれは何かを語る態度としては不誠実だと思います。正確には「語る」というよりは「語り合う」です。だってそうでしょう。現場に入ってはじめて捉えられた「何ごとか」はもはや「作品」とは切れたもの、はっきりと外部です。観客にとっては「作品」が全てです。「そこで起こっていること」を「作品」に落とし込めなかったとすれば、それまでです。これは非常に冷めた言い方かもしれません。しかし、作り手にはそのことに厳密であってほしい。作り手が「外部」を持ち込むことと「言い訳」にはどれほどの差がありますか。観客も同じです。観るときはいくらでも「情報」を持って観ればいい。ただし、「情報」とは諸刃の剣だし、基本的には他人と共有できるものではない。そのことには自覚的であるべきです。僕が言いたいのは、ここでの作品に対しての基本的なスタンスです。あくまで作品の内部に留まろうとする姿勢や意志、それはコミュニケーションへの意志と同義だと思っています。「作品」という同じ前提を共有すること。話が始まるとすればそこからです。そうでなければ、それは単なる独り言、それこそ否定的な意味での「つぶやき」でしょう。そして、あくまで作品の内部に留まる慎ましさのことを「批評的」と呼ぶのだと考えています(だからその意味で蓮實重彦をはじめとするテクスト論者のスタンスには基本的に同意します)。批評がコミュニケーションだというのは、それが他者に理解可能(と書き手が判断する)なように書かれているという意味でです。
ブログでの批評が、いま述べたような意味での批評であるならば、それは来るべきテン年代においてコミュニケーションという面でひとつの可能性を孕んだものであるような気がします。